>>388
悟った私が迷いを作り、迷いの中でふたたび悟るのじゃ。
健康な私が不摂生で病気の私になり、病床で絶え間なく悪夢に苦しみ、ふたたび健康の私に返ることと似ておるのう。

しかし病気を患っても頭までは完全に狂わんように、たとえ迷った私でも、もともとの悟った私は完全には消えてはおらんのじゃ。
この悟った心を清明平静の道心というのじゃ。迷った心を我欲障阻の人心というのじゃ。

しかし仏教などを半端に知った者たちは、無我とか無心といった観念に引っかかってしまうのじゃな。
これは、迷いの心は本来、無であるという意味なのじゃ。
無我とか無心というものがあるわけではないのじゃ。

清明平静の道心は常にあるのじゃ。
病苦と悪夢にうなされ、狂ったように喚き散らしておるさなかにも、かすかに理性があるようにのう。