>>114>>115 論外じゃな。
 ヴィパッサナーと空観の区別もついていないのじゃ。
 おぬし自身の提出した文に全ての答えが書いて在るのじゃ。

 一 お釈迦様は世界を空と観よ、と説いた。

 二 瓶に水が欠いていると観るのが空観であるならば、どのようにして世界が欠いていると観られるのじゃ?
悟りを得ていない者には世界は欠いておらず、正に存在しているものじゃ。
   悟りを得ていない者があるがままに観るヴィパッサナーでは世界は正に存在しているとしか見えないのじゃ。
 
  ここが重要であるから繰り返すのじゃ。
  悟りを得ていない者があるがままに観るヴィパッサナーでは世界は正に存在しているとしか見えないのじゃ。
  悟りを得ていない者があるがままに観るヴィパッサナーでは世界は正に存在しているとしか見えないのじゃ。
  悟りを得ていない者があるがままに観るヴィパッサナーでは世界は正に存在しているとしか見えないのじゃ。
 
 ディスレクシアのおぬしにもこれだけ繰り返せばわかるじゃろう。
 よってその文から導き出せる答えは、空と観ることとは正に世界を空と心に留め置くこと即ち念じることに他ならないのじゃ。
 空と念じることが空と観ることなのじゃ。
 そもそも般若経の解説をするわしが経に空と観ると書かれていることを知らないはずも無いのじゃ。
 実践の法として空と念じることを説くのじゃ。

 腹は切らなくて善いのじゃ。
 心をこめてわしに仕えるが善いのじゃ。