>>878
多分、観察するものがされるもの、という他の覚者の言葉から
連想的にそれが出ているなと俺は理解する。
おそらくそれは一種の公案であり、そのまま鵜呑みにするべき言葉ではないはずだ。
oshoという覚者がいて、
弟子たちは心を見続けていたのよ。
苦しみと涙、喜びと悲しみのはざまにいたりするが、それでもやり続けていた人達は
たまに発狂したんじゃないかと思われるほど喜んだりする人が出てくる。
oshoとその弟子たちはそれを面白い表現で話した。
落ちた、と。
本当に何かが落ちるからさ。