75年夏の県予選での国府の快進撃は、ひとえに青山の右腕が原動力だった。
選抜出場の中京をはじめ、享栄、前年代表の名電工、愛知と私学の強豪を次々と破っての甲子園だった(東邦は出場停止中だった)。
市川が残った翌年も強かったが、県ベスト4どまり。
その後はまったく名前を聞かないな。