50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.3
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第50回全国高等学校野球選手権大会(抽選会〜開会式)
市川崑監督映画「青春」
https://www.youtube.com/watch?v=CYq34IUmSC8
今では不可能な6万人の大観衆。
出場校の懐かしい顔ぶれは地区代表校に相応しい。 第50回大会決勝戦興国対静岡商業。
静岡商業最後の攻撃一死から試合終了まで。
https://www.youtube.com/watch?v=A-ELEPYPD3I
セカンドゴロに倒れた静岡商業の最後の打者はあざといヘッドスライディングせず。
ゲームセットの瞬間、興国丸山投手が爽やかな笑顔で丸目捕手に駆け寄りがっちり握手。
後方からは内野手が笑顔で弾むようにホーム整列へ。
今では恒例のマウンドに集結しての指差しポーズも無ければ、大仰な咆哮も無い。
高校生らしい爽やかな歓喜の瞬間。 >>4
静岡商の最後の打者は中日で新人王獲った藤波やね(当時2年) 両軍合わせて、プロ野球入りは5人。
地味な顔合わせの割りには多い。 地味かなぁ豪の新浦対柔の丸山と見応えあった・・・もしも新浦が退学してなかったら
翌年に新浦vs太田の豪腕対決が見られたねェ 60年代以降の夏の甲子園で、プロ野球入りが0人の決勝戦は71年の桐蔭学園−磐城だけ? そうなると、その年度の高校野球のレベルと合致するw >>8
もし新浦が退学していなければ、翌年静岡商は準々で松山商と対戦しているが勝てただろうか。三塁手だった松島が投手に転向したが、樋野に2ランを打たれるなどして1-4と完敗している。
勝っていたらあの松山三沢の18回はなかったことになるが。 >>12
樋野和寿は明大〜日本鋼管でも活躍しましたがプロには行けなかった。 やっぱり昭和45年の東海大相模やPLなんか多かったんじゃないかな。 12 行けなかったでなく家族の反対で行かなかったらしいそれでも高校&大学&社会人
で優勝経験したから恵まれた野球人生やったでしょう・・・
当時は東北の子らは逆に近畿の強豪チームに野球留学していた。 そう、樋野氏が83年に日刊ゲンダイの取材で答えていた。
高校卒業時に阪神に指名されたが「冒険するな」と父の忠告で明治に進学、六大学でも73年秋にリーグ優勝。大学卒業時にも中日に指名されたが社会人へ。
76年の都市対抗で優勝、橋戸賞を受賞。
全日本メンバーに選ばれ海外にも何度も遠征、自分ほど恵まれた野球人生を送った選手も珍しいのではないか。
社会人になってからも「その気になったらいつでも連絡をくれ」とプロのスカウトから言われたが、アマの最高峰を極めたのでプロには魅力を感じなかったと話していた。 >>15
”外人部隊”が週刊誌を大々的に賑わしたのは1980年の江戸川学園取手だったね。
週刊誌でメチャクチャに書かれてたのを今でも思い出すが、今はもう書かれなくなったな。
ところで江戸川学園取手って今はどうなんだろう?
小生、四国住まいなんで、茨城の事情が全然分からないが。 江の川や倉吉北は批判されてたっけ?
江戸川学園取手は試合中の野次があまりにも酷かったので、
マスコミが注目して記事に取り上げられた点で同情の余地があると思う。 >>20
江の川や倉吉北も批判されてたとは思うけど、江戸川学園ほどではなかったと思う。
桑田や清原がいた頃のPLが結構叩かれてたな。
桑田、清原といえば以前80年代スレにも書いたことがあるが、この頃のPLを作家の藤本義一氏が
ボロクソに言ってたのを覚えてる。
「PL?ただ無機的に強いだけや。あんなん高校野球とちゃうやろ。PLが大阪代表なんて、ホンマ
腹立ってしゃあないわ。」と、こんな具合だった。 倉吉北の選手の異形な容貌や無礼なインタビュー受け答えは今なら叩かれていたと思う。
倉吉北のプレーは憶えていないが、1984年の鎮西のような恫喝プレーはなかったのだろうか? >>22
今の大阪桐蔭がかつてのPLには及ばないと年配連中から言われるのと同じように、PLも当時は浪商には及ばないみたいに思われてたのかな? >>23
倉吉北は80年センバツのチームが剃り込みを入れてて批判されてたな。
78年夏のチームは初戦で優勝候補の早稲田実に競り勝ち、翌年春は静岡の太田と、倉吉北の
矢田が息詰まる投手戦を演じてたというのに、たった1年でマスコミの評価がガタ落ちになったね。 >>19
江戸川取手は茨城県内に於いて超進学校ですな。
かつてビートたけし氏の実兄北野大氏の息子が江戸川取手野球部の主将でしたね。
あれは平成4年だったかな?
日刊スポーツの関東紙面に掲載されていてビートたけしについて『おじさんを尊敬してます』ってコメントがあったね。
>>22
おじゃまんが山田くんの『吉倉北』高校みたいやなw >>22
「野球留学」と言う意味に特化すれば、PLは叩かれるほどではない。
主力の大半は関西人。 東北地区が関西からの野球留学に力を入れただしたのはPLの創部に尽力した井元さんが
青森山田へ行った頃かそれまでは仙台育英や東北が東北地区の有望選手の受け皿 >>18
樋野和寿氏は同学年の鍛冶舎巧氏と同じくプロ拒否だったのね。
鍛冶舎氏は松下電器時代に阪神のドラフト2位指名を拒否でしたが、高校、大学時代には指名はされず。
樋野氏は高校、大学時代にドラフト指名されてたのは知らなかった。 >>28
青森光星の金沢は大阪出身やったからあれが関西→東北に拍車かけたか。
青森山田は兵庫尼崎(ボーイズ/伊良部、PL俊足田中など好素材を多数排出)とルートつけたんが大きかったな。
関西から大々的な野球留学は倉吉北、尽誠。そう言うと天理も古くから受け入れてたわ。 >>24
浪商は学校経営を安い土地に移転して潤ってた感じか。
天王寺→阪急淡路→茨木→熊取と転々してるもんな。
淡路で止まってたら野球部はじめ運動部の隆盛はもっと凄いもんやったかも。
茨木に移る時にも「泉州からいいのが来なくなる」とOBは懸念してたらしいわ。 >>25
いや、剃り込みは81年のチーム。
前に70年代スレで書いたが、78年夏のチームには留学生は一人か二人。それが早実を破って「甲子園をめざすのならあそこ」と注目されて翌年の春に留学生が50人ほどどっと押し寄せた。
なにしろ当時の鳥取の参加校は18校。坂本は上甲子園中出身ということも話題になったな。兵庫は激戦区だが鳥取なら四回勝てば甲子園だから、ちゃっかりした現代っ子に倉吉北はウケたのだろう。
ちょうど一県一校制になったときでタイミングもよかった。坂本が三年のころ、留学生は100人を超えていたらしい。 >>32
倉吉北の坂本が上甲子園中学出身で思いだしたけど、80〜81年夏に甲子園に出た沖縄・興南の
エース竹下(横浜大洋)も、確か甲子園すぐ近くの中学だったはず。
”急がば回れ”の典型だったけど、当時の沖縄は豊見城が全盛期だった。
なのに、よくもまあリスクを冒して沖縄の、それも興南まで野球留学に行ったものだと思ったよ。 昭和53〜55年頃の高校野球の雑誌で、野球留学の話題があった。
野球留学するのは甲子園でプレーしたい と思っている球児が多いという話を聞いた人が
兵庫県は夏の予選で甲子園を使用している。
だから高校時代、どうしても甲子園でプレーしたいなら、兵庫県の野球部のある学校に入学し、
べンチ入りすれば抽選しだいでは甲子園でプレーできる可能性は高いのでは。とのこと。
なるほどと思ったのだが、いまも兵庫県の予選は甲子園を使用してるのだろうか。
また、むかしは地方の球場はショボかったからこういう意見があったのだろうか。 >>17
山形酒田の渋谷三兄弟。
長男、次男は平安。三男は報徳で選抜優勝。 >>27
もともと新興のPLは地元の有力選手が取れなくて
教祖の全国行脚に広報として同行していた
井元氏が各地の教団関係者からの紹介等で
選手を集めていただけで
今の野球留学とは違う経緯だったはず。 そう、兵庫宝塚出身の選手が7人くらいいた。夏の大会なのに部員が14人しかいなくて、大会後は9人を割ってしまった。 31.言い訳かもしれないが浪商が最後に優勝した時の2年生ェース(後に中退してプロ入
り)が甲子園大会前からプロと密約があったという事がわかって選手を接極的に集めるの
をやめたと聞いたことがあるが・・・ドラフト前夜は大会で負けた翌日にプロ入り発言と
か今では考えられことがあったらしい >>33
竹下はたしか尼崎の中学だったかな。
小さいときから甲子園に通って選手を追いかけていたらしい。
「整理できないくらい選手の写真がいっぱいなんですよ」とお母さんが語っている、と報知高校野球80年夏の決算号のクローズアップに載っていた記憶がある。 前スレの映画「青春」再放送
本日深夜なのでお忘れなく 50代のみなさん、60代も、
縦縞ではない東北高校、二年で主戦の三沢・太田幸司選手の入場行進が見られます。
近鉄入団後の「アーモンド・グリコっておいしいなあ。」の棒読みを思い出す人、多いと思います。
太田幸司投手は、東北の英雄でした。 >>43
ファンレターの住所が「東北地方 太田様」で届いたとか聞いたことがあるな。
それと太田の女房役が小比類巻って名前だったが、小比類巻かほるも確か
東北・青森の出身だったと思う。
珍しい姓だが、青森では普通なのかな? 幸ちゃんもええ関西のオヤジになったねぇあの口下手な少年もかわればかわるもの ここにいる人たちの甲子園のヒーローと言えば、
池永、尾崎、柴田、太田幸司、島本講平、江川あたりなのかな? 阪急→オリックスでブレービーの中の人やり、頑張る島野は? このスレにいる人たちの最高の名勝負と言えば、
やはり、松山商vs三沢なのかな。
後は法政二(柴田)vs浪商(尾崎)の3期連続の対決とか。
もっと下の年代だと何と言っても箕島vs星稜だろうな。 >>51
現在52歳。
最高の名勝負といえば、箕島vs星稜になりますね。
松山商vs三沢は記憶にありません。 もう一度見たい選抜の名勝負
79年選抜準々決勝:東洋大姫路−池田の泥んこナイトゲーム
この試合の動画が見当たらないんだよなぁ
昔、毎日放送の何かの番組でチラッと流れたのは見たが 自分は55歳、東北の百姓の子供(青森ではない)。親父が言っていたのだが昭和44年の松山商-三沢の中継を農作業中聴きたいため
ラジオを購入し作業中ラジオで聴いていたらしい。当時自分の家ではラジオは高級品だったと思う。
親父はいつも「太田幸司は一人で18回投げ抜いた」と言っていた。
・・・野球あんまり知らなかったのだが。 三重と堀越の決勝カラーでアップされてるけど
同じ年の松山商、三沢もモノクロじゃなくカラーで見たい。
あと翌年の東海大相模とPLも。
単純に決勝のネームバリューでいったらこの年が最高だよな。 >>53
この試合も、89年春の西条−県岐阜商も見たけど、甲乙つけがたいw
特に89年のように、内野ゴロが止まったら野球にならない。 79年の東洋池田、89年の西条県岐商に共通しているのはそれぞれ準々、一回戦の最終試合であり、中止にすると日程が確実に一日伸びるから強行したのだろう。
8回まで大差の東洋池田はともかく、7回で県岐商コールドにしていたらまた後味が悪かっただろう。 小4の夏に、浜松商野球部出身で甲子園出場経験がある父親に連れられて
初めて甲子園で見た試合がこれ。対石川高(沖縄)で投手は糸数。
https://www.youtube.com/watch?v=Ufoaw6SZz0E
浜商高林の史上初の逆転サヨナラホームランで、帰路の新幹線までお祭りだった。
今は亡き父親の涙を唯一見たときでもあった。
後日高林氏とは仕事で関係を持ったのも特別な縁を感じた。 >>57
西条−県岐阜商を見て、7回終了時点4−4でコールドゲーム成立が落とし所だと、個人的には思った。
それ以上続けても野球にならないし、結果、県岐阜商に最悪の結末が…。
主催側のミスとしか言いようがない惨事だな。 もう一度見たい選抜の名勝負といえば
やっぱ作新vs北陽かな
江川を見たときの衝撃 おれは昔のセンバツ開幕試合の倉敷工-中京の超打撃戦だな。試合が途中で見られなくなってしまったが、小澤、杉浦の両名監督と合わせてノーカットで観たい。 ただの興味だけど現在の最新技術で当時(S48年センバツ時)のフィルムから江川の球速
を測定できないのかなぁ・・・ファールを打っただけでスタンドがどよめいた衝撃なんて
あれ以来ないよw >>59
そうか、西条県岐商は7回終了時は同点だったのか、記憶違いだった。それならばそのときコールドで引き分けにしておけばあの悲劇は起きなかったな。
79年春の東洋池田も2-2の四回終了でノーゲームにするのが妥当だったと思う。
そうなれば池田永井の本塁打は幻の本塁打になってしまったけど。
あの日は朝から雨で、直前の浪商川之江のときももかなり降っていた。 >>63
三塁打では。
でもあれはめったに打球がこないライトが普通のライナーに戸惑ってそらしたんだけど。 千葉県民だが、去年の大坂対決は面白かった。
いい試合観れるなら夏も大坂は代表校2校でよい。 東洋大姫路-池田の試合が行われたのは79年4月5日の木曜日。
この日の夜に放送されたザ・ベストテンで、沢田研二が屋外からの中継の際(雨が降っていた)、歌う前に「高校球児には負けてられませんよ〜」とコメントしていた。
多分、テレビで試合観てたんだろうね。 東筑の青野監督て78年夏に東筑のキャッチャーとして甲子園出場してるけど、活躍を覚えてる人います?
2勝してるよね。 >>4
興国の校歌は軍歌っぽい昔ながらの校歌
魔法の合言葉やカシオペアではちょっとね・・・ >>69
このときもサイドハンドの石田投手。
東筑が初めて甲子園で勝ったね。
校歌が途中カットされていたことを
覚えています。 78年夏
東筑−日大二
ttps://www.youtube.com/watch?v=i_YLVhVrZug もう一度見たい選手権の名勝負といえば
作新vs銚子商
打倒江川に燃える銚商打線に感動した 江川攻略に成功した銚商と広商のかっこ良さは最高やったな。
両校とも、明を撃退した島津軍の若武者とか、戦争末期の島々で激戦を戦う日本兵を彷彿した。
選手たちのしぶとい表情には負けん気が漲っててホンマに逞しさを感じたわ。 >>68
歌は「OH!ギャル」か?
そのころは秀樹の「ヤングマン」がそろそろブームになっていたはずだよな。 東筑の青野監督で思い出したけど、銚子商の青野って江川キラーだったよな
アントキも江川から3本ぐらい打ったよな? >>76
10000点のときか。
ボードには表示ができずに9999点と出たな。
ジュリーは「カサブランカ・ダンディー」のときだな。「OH!ギャル」は次のシングルだった。
「ヤングマン」は翌年の選抜行進曲になったな。行進曲にぴったりだった。 >>77
自分は江川キラーというと、
中日・豊田選手を思い出します。
高校野球じゃないけど。 青野達也、JFE東日本で選手として活躍した後
監督も務めた。 江川と言うと船田元なんだろうけど、芋づる式に糸山英太郎、笹川良一、更に児玉誉士夫や小佐野けんじまでが連想してしまう >>79
法明戦で4打数4安打したときがあったな。
あの江川をKO寸前まで追いつめた。
それにひきかえ、早稲田のマックス佐藤は江川にひねられっぱなしで卒業したな。 児玉誉士夫で連想するのは東京エマニエル夫人の田口久美嬢だな 膳所高校に似た名前の学校、熊本かどこかにありませんでしたか? >>85
児玉誉士夫で連想するのは、ロッキード事件が明るみになったあの年の選抜の開幕直前、事件に抗議して児玉邸にヘリ機で突っ込んだのがいたな。
突っ込んだ屋根の写真が新聞の一面を飾ったの、いまでも覚えている。
>>89
前々回出場の72年夏も0-9だったからね、甲子園では59年春以来59年ぶりの得点ならず。 膳所高校に似た名前の学校、熊本かどこかにありませんでしたか? >>91
広陵、桐生、日本航空石川.........くじ運も悪すぎるww くじ運悪い学校ってあるよな…
甲子園でもやたら開幕戦に縁がある監督とかさ。
元福井商業の北野監督や元東北・仙台育英竹田監督やら。
一時の岡山東商業・・・
夏11連覇中の福島聖光学院は初戦の相手にあまり恵まれてないような。
今回組易し対戦相手なるも開幕戦とか。
今回聖光学院が開幕戦登場により春夏通じて開幕戦未経験の地区はなくなった。 足利工業も対戦相手に恵まれない感じ。石田投手の時は知らないけど、1982夏の小林投手の時はベ
スト8までいった比叡山、1984夏の磯投手の時は優勝候補の都城、1987夏の石井琢朗投手の時は鹿
児島商工と強い相手が多かったです。NNKの関東ローカルで栃木大会の決勝を見たときは三投手とも
本格派の好投手で打線も悪くなく実力校と思ったのですが。最近の足利工は栃木大会でダークホース
にもあがらないようですね。 中京商業対嘉義農林。
それを再現した台湾映画KANOは俺の知る限り、史上最高の野球青春映画。
ここに棲んでる人には是非、おすすめ。
ゲオなら旧作扱いで50円くらいで借りられると思うよ。 蔦監督の孫が制作した「映画蔦監督」もいいぞ。
開会式の入場行進や決勝の報徳戦など74年春のイレブンのときの映像がみられる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています