【看守】刑務官採用試験 part482 【高卒程度】
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起床、点検、シャリ三本
明ければ満期が近くなる
※前スレ
【看守】刑務官採用試験 part481 【高卒程度】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/govexam/1659779017/ 最も早期に農耕が開始した西アジアでは、コムギ、オオムギ、レンズマメ、エンドウマメなどが栽培家畜化されているが、コムギ、オオムギは、紀元前9,200年ごろに野生種の栽培飼育が開始し、紀元前9,000年ごろにコムギが、紀元前8,500年ごろにオオムギが、それぞれ栽培家畜化され、レンズマメは、紀元前9,200年ごろに野生種の栽培飼育が開始し、紀元前8,500年ごろに栽培家畜化され、エンドウマメは、紀元前9,000年ごろに野生種の栽培飼育が開始し、紀元前8,000年ごろに栽培家畜化されたとされている。 「東南アジアでは前1万年ころから新石器時代に入るが,中緯度地方と違って,打製石器・骨角器は持つけれども,磨製石器・土器・農耕をもたない文化が以後6,000年間続く」が、「前4,000年ころから東南アジアでは顕著な変化が現れ」、「土器が作られるようになり,着柄用の突起を持つ完全磨製の有肩石斧休工具)が現れ」、「居住地が山間の洞穴から湖沼周辺や沿岸部の低地へと移ってくる」 エジプト第一王朝のファラオは、「月を司る雄牛」と「牛のような顔」を持った「地平線の守護女神ハトホル」という男神と女神の「夫婦の息子」であるので、おそらく、エジプト第一王朝の時代の王権神話では、「母からの遺棄」は語られてはいなかったと考えられる。 「肥沃な三日月地帯」に「隣接する南や北の広大な地域−南のシリア・アラビア砂漠や北方のヨーロッパから西アジアの草原地帯−には牛を追う屈強な遊動狩猟採集民が広範に点在していた」が、それらのうち、「南方には、羊や山羊を追い、やがて駱駝を飼い慣らすセム語族の牧羊民が散らばって」おり、「北方には、インド・ヨーロッパ語族の戦斧をふるったり牛を飼ったりする多様な人々が点在し」ていた。 彼らは「農耕民ではなく、遊牧民の侵略者で」あり、「シリア・アラビア砂漠からカナンやメソポタミアを侵略し、断続的にやって来」て、古代メソポタミアに征服王朝を樹立したが、「自分たちによく似た雷と嵐の神を主な守護神としていた」 そもそもウルク期の都市国家は、古代メソポタミア南部の水辺で農耕と狩猟採集などの多様な生業で生活していた在地のウバイト人を、気候悪化で南下してきた牧畜民のシュメール人が征服し、彼らを土地に縛り付けられた農奴としたり、工房で奴隷労働に従事する、戦争の戦利品の奴隷としたりする、農奴や奴隷支配のための機構として誕生したものであったという。 また、「月を司る雄牛とハトホル」の夫婦の子とされた古代エジプトの第一王朝のファラオが、「君主の印として身に付けた帯の前面と背面と左右両側には、地平線の守護女神ハトホルの牛のような顔をかたどったメダルがあしらわれ、さらに背面からは、月を司る雄牛の尻尾がぶら下げられた」が、ここで強調されている「牛」はナイル川流域が原産ではなく、気候悪化によって砂漠地帯になる前にはナイル川の西方の草原地帯で飼育されていたものであって、気候悪化で砂漠化したナイル川の西方から、遊牧民とともにナイル川流域にもたらされたものであったと考えられるので、初期の古代エジプトの都市国家も、シュメールの都市国家と同じように、進入してきた遊牧民が在地の農耕民を支配するために建設されたものであった。 そうすると、初期の古代メソポタミアや古代エジプトのナイル川流域に侵入してきた遊牧民たちも、その後に古代メソポタミアに侵入してきたセム語族のアムル人と同じような「自分たちによく似た雷と嵐の神を主な守護神としていた」と考えられ、彼らは、本来は男性中心の神話を持っていたと考えられる。 にもかかわらず、初期の古代メソポタミアや古代エジプトの神話が、キャンベル論文によれば「女神中心の神話」であったのは、そのころまでは、遊牧民が侵入する前の農耕民の神話の影響力が残存していたからであったと考えられる。 遊牧民が侵入して来たときには、遊牧民は武力では農耕民に勝るが、その人数は遊牧民の方が少なく、文化の程度は農耕民の方が進んでいたと考えられる。 新たにやってきた比較的少数の支配者が、文化的に進んだ多数の人々を支配するようになると、被支配者の文化に大きく影響を受けることがある。 例えば、ゲルマンの民族移動でローマ帝国を滅亡させて各地に王国を建設して、在地の「ローマ人」を支配したゲルマン人たちは、在地のローマ人よりも彼らが圧倒的な少数であったことと、彼らの文化がローマ人の文化よりもかなり遅れていたことによって、すぐにローマ文化を受容し、やがてキリスト教に改宗してゆくのである。 そうすると、例えば、古代メソポタミアでは、シュメール人の都市国家建設からアッカド人による統一国家「アッカド王朝」の建設、そして、アムル人による古バビロニアの「バビロン第一王朝」の建設までが、ある意味では、「女性中心の神話」から「男性中心の神話」への過渡期であったと考えられる。 そうすると、インド・ヨーロッパ語族の神話も「男性優位」な神話であり、そこでは王権の由来は男性原理で語られることになるが、その男性原理は、女性原理の否定として、つまり「母からの分離」と男神による保護・養育という形で語られたと考えられる。 都市国家の古代ローマを建設したのはラテン人であるが、彼らはインド・ヨーロッパ語族であり、バルカン半島を南下した集団のうち、その途中でアドリア海を渡海してイタリア半島東南部に渡った集団が、その後、イタリア半島を北上してラティウムに定住したと考えられる。 だから、ラテン人も「男性優位の神話」を持っていたと考えられるが、その「男性優位」が「女性原理の否定」として語られたのは、おそらく、彼らが進出したバルカン半島やイタリア半島の在地の人たちの間に「女性優位の神話」が残存していたためであり、そうした残存した「死と再生女神」や「大地母神」の神話を、新たな「男性優位」の神話で否定する必要があったために、誕生した始祖の「母からの分離」の神話が語られたのであると考えられる。 なお、セム語族のアッカド王朝の始祖のサルゴン王の伝承やセム語族のヘブライ人の「旧約聖書」のモーセの伝承には、「遺棄された子」の「動物による保護」はないので、この「動物による保護」は、インド・ヨーロッパ語族が移動を開始して以降、おそらくウクライナ平原に北上したときに語られ始めた伝承であったと考えられる。 そして、「このサイクルは少なくとも紀元前十七世紀のヒッタイト帝国の建国のころに始ま」り、中央ユーラシアでは、「紀元前七世紀に建国された草原地帯における最初の強大で組織化された国であるスキュタイ帝国から近世のジューンガルと満洲に至る」ものであるという。 少女が天の霊もしくは神によって懐妊する。
正統な王は不当に退位させられる。
少女はすばらしい男の子を生む。
不正な王はその子を捨てるよう命じる。
その子は野獣に育てられ生き続ける。
その子は荒野で発見され、助けられる。
乗馬や弓に優れた男に成長する。
宮廷に連れてこられるが、従属的な地位にとどまる。
殺されそうになるが逃れる。
彼は誓いの戦士を従者として得る。
暴君を打ち倒して王国に再び正義を打ち立てる。
新たな町もしくは王朝を築く。 古代ローマは、「ロムルスの名にちなんで「ローマ」と名づけられた」が、「2人は雌オオカミから乳をあたえられていたことから、「乳首(ルーマ)」という言葉にちなんで、ロムルスとレムスと名づけられた」のである。 古代ローマは「ロムルスの名にちなんで「ローマ」と名づけられた」とされているが、ロムルスが古代ローマの守護神であったとすると、都市の建設の神話は都市が建設されてから創作される場合が多く、その神話に登場する都市の守護神の名は都市の名から構想された場合が多いので、「ロムルス」の名も古代都市の「ローマ」から構想されたものであり、古代ローマが建国されたときに、その建国神話とともに登場したものであったと考えられる。 「十月に天をまつり、国中の人々が大いに会する」が、「その名は東盟とい」い、「その公の会では、皆が錦繍の衣服を着て金銀で飾りたてた」 「国の東に大きな洞窟があり、その名を隧穴という」が、「十月に国中の人々が大会を行う際、隧神を迎えて都の東の川岸でまつるが、この時、木で隧神の像をつくって神坐に安置した」 古代ラテン語やエトルリア語では、rumisやrumenはともに「乳房」という意味であるが、これらは、ギリシャ語で「力」を意味するromeに由来しており、本来は「胸の中に秘められている力」を意味するものであり、そこから、その力を生み出す乳を出すものとして、「乳房」に転用・派生されたのだと考えられる。 「ローマの地にたどりついたロムルスとレムスは、町を建設する丘をめぐって、兄弟で争うようにな」り、ロムルスはパラティヌスの丘を選んで周壁を築いたが、レムスがロムルスを侮辱して壁を壊して飛び越えてしまったため、兄の怒りにふれて 「二人が揉めたのは、どこを新たな拠点にするか、とくに、いくつかの丘のうち(七つの丘が有名だが、実際そこにはもっとたくさんの丘があった)どこに中心地となる最初の集落を置くかということだった」 「ロムルスが選んだのはパラティヌスの丘で、のちにそこには皇帝の大邸宅が建ち、それから「宮殿」という言葉が生まれた」 兄弟の争いはないが、兄弟で移住して来たが、建国できたのはそのうちの一人だけだったというストーリーなのは、「古事記」や「日本書紀」に書かれた神武東征神話である。 ランゴバルドは、ゲルマン民族の大移動で、当時は東ローマ帝国が支配していたイタリア半島に進出してランゴバルト王国を建設しイタリア半島を支配した。 「ランゴバルドが剃られない髭の長さにちなんで,最初はウィンニリと呼ばれていたにもかかわらず、のちにこの名前で呼ばれたというのは」、「彼らの言葉では,「ランク」は「長い(ロンガ)」を、「バルト」は「髭(バルバ)」を意味する」からである。 また、モンゴル帝国では、チンギス・ハンの死後に、故地のモンゴル高原を相続したのは末子のツルイで、彼が征服した土地のうち、アルタイ山脈からカザフスタンのシル川以北の草原地帯までは長子のジュチ、ウズベキスタンとカザフスタンのアム川、イリ川流域は次子のチャガタイに、カザフスタンのエミル川流域は三子のオゴタイが相続したが、このような「末子相続」の慣習も、未開拓地が広大に存在することを前提として、人口の過剰を解消するための手段でもあったと考えられる。 「ラテン人(ラティウム地方に住み、ラテン語およびその同系の言葉を話す人びと。ローマ人も、ラテン人の一派)のあいだに「聖なる春」と呼ばれた慣習があった」といい、それは、「人口が過剰になると、動物、人間ともに第一子(初子)を神に捧げ、新しい町を建設するために国外に送り出すという慣習である」というが、ランゴバルトの例からわかるように、これはインド・ヨーロッパ語族の風習であったと考えられる。 移住のときの指揮官が二人なのは、おそらく、新しい土地への移住は、そこに住んでいた先住者との闘い抜きにはなしえなかったので、指揮官が戦闘で死亡した時に、後継者を新たに手続きを踏んで選出しなくても、すぐに代わって戦闘を継続できるようにするためであったと考えられる。 例えば、古代ギリシャのスパルタには二人の王がいたが、それはスパルタが、先住民のヘリオイコイをスパルタ人が武力で支配する軍事国家であったので、スパルタ人がペネポレソス半島に定住して以降も、スパルタでは戦時体制が継続していたからであったと考えられる。 しかし、これまで見てきた例と比較すると、おそらく、「建国のときの兄弟の争い」のモチーフは、移住のときの二人の兄弟の指揮官が定住地では一人の王になったということを後から説明するために語られたものであり、その定型的なモチーフによって、ロムルスとレムスの兄弟争いの神話が語られたのであったと考えられる。 この時、沙本毘売命、その兄に得忍びずて、後っ門より逃げ山でて、その稲城に納りましき。この時、その后妊身ませり。ここに天皇、その后の懐妊ませること、また愛で重みしたまふこと三年に至りぬるに忍びたまはざりき、故、その軍を廻して、急かに攻迫めたまはざりき。かく逗留れる問に、その妊ませる御子既に産れましつ。 故、その御子を出して、稲城の外に置きて、天皇に白さしめたまひつらく、「もしこの御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまふべし」とまをさしめたまひき。 ホムチワケは生まれながらものいわぬ子であった。かれは垂仁天皇の皇子である。しかも系譜によれば第一皇子とされる。母はサホビメ、その兄のサホビコは天皇を殺そうとした反逆者であった。 「古事記」の読み解きから、「古事記」や「日本書紀」、およびそれらの元になった大王の物語は、史実を記したものなどではなく、たびたび変更されたと考えられる大王の系譜の意味を説明・説得する、ある種の「文学作品」であったことが良く分かる。 そうすると、家長や首長が有力な親族集団の「兄弟・姉妹」によって担われていたような社会は、おそらく、牧畜民族や遊牧民族だけではなく、狩猟採集民や農耕民の間にも古くから存在していたのだと考えられる。 以上から、古代ローマの建国神話に二人の兄弟の建国者がいたのは、移住のときには「戦時の」二人の指揮官がいたことによるものであったが、それは同時に、このような、家長や首長が有力な親族集団の「兄弟・姉妹」によって担われていたような古くからの社会の在り方が反映・残存したものであり、二人の兄弟が相互に争い、そのどちらかが建国を成功させるというのは、「戦時の」二人の指導者が定住によって「平時の」一人の王になったということ、「兄弟・姉妹」による「集団指導体制」から、一人の王とその妻の権力の確立への変化ということを反映していたと考えられるのである。 つまり、古代ローマの建国過程での「戦時の」二人の指揮官から「平時の」一人の王への変化とその理由、「兄弟・姉妹」による集団指導が王による支配に変わった理由を説明・説得するために、ロムルスとレムスの兄弟の争いの話が構想されたのだと考えられる。 「ロムルスが自分の建設した新しい町に住みたがるあらゆる人々ー異邦人、犯罪者、逃亡者ーを受け人れたこと」には、「ポジティブな側面もあ」り、「このことこそが、外部者を積極的に受け人れる、驚くほど寛容なローマの文化的土壌に繋がっている」 「ここでも古代アテナイとの違いは歴然として」おり、「古代アテナイでは解放される奴隷はほとんどおらず、都市国家成立過程でアテナイ市民権を持てなかった者は、国を持たない根無し草となった」 指摘によれば、古代ローマには「外部者を積極的に受け入れる、驚くほど寛容な」傾向があり、それは、「家内奴隷の解放」にも表れている。 こうした「開放性」は、古代ローマがイタリア半島の他の都市国家を「征服」する過程でも見られ、古代ローマに征服されたイタリア半島の他の都市国家は、古代ローマからの直接支配を受けるわけでもなく、彼らが課せられた義務は、古代ローマが行う戦争に軍事力を提供することだけであり、そのことは、その戦争で古代ローマが勝利すれば、彼らもその戦争から得られた戦利品の分け前にあずかれることを意味していた。 指摘するように、「都市国家成立過程でアテナイ市民権を持てなかった者は、国を持たない根無し草となった」というのは、都市国家アテナイにその建国以降に流入した人たちはアテナイ市民権を持てなかったということであり、こうした傾向は、他の都市国家でも同様であったと思われる。 この「他の都市国家」には、ラテン人が建設したラティウムの都市国家も入るとすると、ローマが、他のラテン人の都市国家の市民たちが、過剰人口を理由として分岐し、その分岐した集団の一方が新天地に移住するという「「聖なる春」と呼ばれた慣習」などにより、公的に一括して移住してきて古代ローマを建国したとすれば、このような古代ローマの「開放性」などは生まれるはずもなかったと考えられる。 このスレッドは1000を超えました。
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