今でこそ「ルールはこうなっている」で説明ができるが、
100年前のアマの人達は合意が得られない場合にいったいどうしていたのだろう?
明治の近代までは両劫ゼキ仮生一が認められていた時期もあったし、
昭和には劫ダテが強ければ本劫手入れは不要だとするいわゆる秀哉の裁定も力を持っていた。
ならば曲がり四目についても、実戦解決するまではセキ扱いだったりそうでなかったり、
碁会所ごとに違っていたりしたのだろうか。

>>11
《取りに行こうと思えば何時でも取りに行ける》
これは嘘。
何時でもというからには、「直ちにでも」取リに行けなければならないはずだ。
ところが、一般的な死石と違って曲がり四目の場合には、直ちにというわけにはいかず、
劫ダテがゼロとなった局面になって始めて無傷に劫を仕掛けて取りにいくことができる。
それを実現すべく劫立てを消したりあるいは劫を仕掛けるまでには、当然ながら
ゲーム最大の目的である地が変化することになるが、これを省略できるという主張は俄には受け入れ難い。
なぜならば、劫ダテがゼロにならなけれは、一方的に取りに行けるという前提が成り立っていない。
しつこいようだが、劫ダテがゼロでない限りは、必ず相手方からの劫ダテによって、
新たに別の箇所に取られうる石ないしは相手方の取られえない石が生じることは避けようのない必然だ。
そしてそれは、劫ダテが存在する限りにおいて、相手方の有する絶対的な権利であるからして、
これを無条件に放棄せよという命令には人間の心情として到底従えないのである。
死活の原理原則に基づいて考えるならば、曲がり四目はセキであると主張することは十分可能だろう。

あるいは、取らず三目や一方取りが実際に解消しなければセキとなる理屈を全局的に拡張することによっても
曲がり四目はセキとして考えうる。

さらにはもっと単純に考えて、実際に曲がり四目を解消するためにはいずれにしても本劫が発生するが、
本劫手残りは劫ダテにかかわらず解消が必要だと決められているのでこれを主張することもできるのではないだろうか。
ただし、その劫は相手方からの手段で生ずるものでもなければ相手方の取り番でもないので、同じ事情というわけにはいかないが…。

つまりは、兎にも角にも曲がり四目というのは他のいずれの類型にも属さない例外中の例外であって、
通常の死活判定の理などもはや何ら判断材料にはなりえないというわけである。
よってこれを理解しているか否かは、純粋な棋力とは無関係だといえよう。
>>26
単純に知識として知っているかどうかだ。

そして、無条件死に対する上述したような疑問は、
このようなスレが過去幾度となく建てられたり、あるいは実際の対局トラブル等からみても明らかなように、
日本で囲碁を覚えた人ならば結構な割合でぶつかる問題のように思われる。
つまり、それだけ直感的には受け入れがたい決まりということだ。
そうなると結局のところ、「曲がり四目無条件死」の説明は、
部分死活論を、碁の原理原則と同様の普遍の定理として受け入れてもらう他は、社会的合意を得るのは困難であろう。