■■囲碁のルールを語るスレ■■
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
■■囲碁のルールを語るスレ■■
さまざまな囲碁のルールの比較、
現在の囲碁のルールの問題点、改善案などについて語るスレです。
同形再現禁止はルール問題の曖昧性を解消するのにもっとも有効な策だが、
同時にもっとも意見の分かれるところであろう。
言い換えれば、囲碁ルールを立案するにあたって最初のもっとも重要な岐路は、同形再現を禁止するか否かである。
全局同形禁止のデメリット
・着手の自由度が損なわれる。
チェスや将棋でも同形反復は禁止とはせず、数回の反復を確認した後に引き分け扱い。
無勝負に持ち込むのもテクニック。
あるいは、優勢側が同形反復回避で解決できるケースもあり、
そのような駆け引きも勝負としての面白さである。
・通常の劫ですら劫ダテを忘れて反則負けになる例があるのに、さらに禁じ手を増やしてゲームに集中できるか?
しかも、同形再現は次の着手にだけ注意を払えば済む問題ではなく、
数手先に必要に迫られる着手も同形再現とならないか気に掛けておかねばならないのである。
「反則負け」という結末は、対局者も観衆も基本望むものではないと思われるし、不名誉なイメージもある。
・同形再現の判断は難しい。
http://igo.main.jp/zenzen1.html
この解説の白14放り込みが黒9の盤面と同一になっていることに何人が気づくだろうか?
(つまり、上記リンク先の解説は間違っている)
立会人や審判が気づかなかったらどうするか?
「対局相手が気づいて指摘した場合のみ」などの案もあるが、
通常の劫における(傍から見れば明らかな)反則でもそれを適用するのかどうかや、
反則の指摘が勘違いだったらどうするのか?後から気づいて指摘しても有効か?
等も、なるべく万人が受け入れられる形で決定せねばならない。
・下記リンク先「常識が覆される図例」その他の解説はごもっとも。
すなわち、着手可能点がまったく残されていない場合には異常な死活が発生する。
(9路対局等では現実味はある)。
http://igo.main.jp/jp-rule-cn.html
・三劫や長生なら無勝負も可。という例外を中韓棋士も好んでいるようである。
同形反復が発生したら再勝負で仕切り直した方が対局者も気持ちを切り替えて後腐れがない。
・常に白黒ついてしまうよりも、無勝負もあった方が話題性がある。
例:信長の三劫の逸話。
呉清源「長生は100万局をしても見たことがない。もし発生すればめでたい」
ちなみに、リンク先記事は鄭銘コウ氏の論考のはずだが、同氏自身が強調しつつ、
その上自ら立証してしまっているように、プロでも同形再現はうっかりしやすいようである。 囲碁ルールを考察する上で計算法の立ち位置は最後。
順番としては、
全局同形禁止か、通常劫ルールか?
通常劫ルールなら、全局死活(如仏の判決支持)か、部分死活(劫尽くし不可も隅の曲がり四目死)か?
部分死活なら、性生論(劫材有利で手入れ不要)か、性死論(常に手入れ必要)か?
そして最後に決めるのが、純碁式か、中国式か、日本式か?
という得点の計算法だ。
なのに、囲碁ルールを語る者はみな計算法を中心にして分別するものだと思いこんでいる。
だから俯瞰的な論理構造が見えていない。本質を見誤る。木を見て森を見ずである。
<塚本氏の誤り>
一例を紹介すると、「着手は義務か権利か」という議論だ。
自分に言わせれば、着手は権利であって義務ではないのは明白だ。
そしてそれは、中国式か日本式かといった計算法の違いとは別次元の、もっと上位階層に位置する基本的な問題である。
であるからして、塚本氏の「着手は義務」だという考察は誤りだ。
同氏はまた、日本式の碁が省略であるといった旨も述べているが、であるならばそれこそ矛盾していることになる。
日本式が純碁式まで打つのを省略しているだけなのだとすれば、純碁式でも着手は義務だということになり、
池田氏の述べるとおりいずれは二眼生きの石に自爆手を打たざるを得ないことになる。
もう少し詳しく説明しよう。
着手が義務だとすれば、それは>>736のいうように、チェス風に言って"スティールメイト"をさせるゲームになる。
>>750を例にするなら、白はパス(義務の放棄)をすると負けだから自分の目に打つことになってさらにゲームは続く。
ただいずれ盤上は、どちらかの単一の目のみで埋め尽くされることになるだろう。
(もしくは、自殺手――自分は打てるが相手は打てないような、死石を取り上げる直前の状態のみになる)
そして最後には、どちらかが自分の意思とは無関係にパスせざるを得なくなる。
となればそれが負けである。そういうゲームになる。
だから同氏の、「パスと終局宣言は区別されるべきものだ」といった線引も、客観的に明確ではない。
二眼の目は着手禁止だというルールは聞いたことがないからだ。
いくら一方が「これはパスではなく終局宣言だ」と主張したところで、盤上に打てる着点が存在する限りは、
もう一方が「まだ終局ではない」と反論したら「着手は義務」のルールにしたがって
自分の目の中だろうと打たねばならないはずだ。
そしてそのようなゲームは、少なくとも我々が知っている「碁」ではない。
ちなみに同氏は双六にたとえて終局を考察しているが、
双六の決着方法(実戦的決着)と、碁の決着方法(得点で決着)では
根本的に異なっているため、まるで説明になっていない。
以上のことから明らかなごとく、「着手は義務か権利か」の議論は、
純碁式か日本式かという計算法の違い以前の、もっと遡った基本的な着手規則=棋法の
問題なのだということがわかるだろう。
日本式だろうと地数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
純碁式だろうと石数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
着手が義務だとすれば、日本式だろうと純碁式だろうと上記のようなゲームになってしまう。
ちなみに、塚本氏の劫にかんする手入れの考察もまったくチンプンカンプンである。
「ヨセ劫は手入れ不要」の理屈は、着手は義務ではなく権利であることを前提とした上での、
対局者自身の自由意思に基づいた着手選択による決着である。
一方、「一手劫は手入れ必要」の理屈は、同士の語る「両劫に仮生一」問題と同じく、
「部分死活」によって劫尽くしと見なすことによる後付け的解釈である。
だからこそ、如仏の判決や、呉清源の手入れ問題が、ルールを語る上で大きな意味を持つのである。 補足しておくけど、「本劫手入れ必要」言い換えれば「劫の目を得点としない」は、
現行規約においては部分死活論によって合理的根拠を与えているのは述べたとおりだが、
本来この問題は、死活論とは【まったくの別問題だ。】
なぜなら部分死活といってもその定義は他にもあり得るのであり、
たとえば、「自分方の着手により取られない石が活石」とするなら、劫の目は活石に囲まれた地になる。
さらに二段劫の目に至っては、現行規約においても
八条「駄目を有する活石はセキ石(地を数えない)」や、
十条「セキ石の死石は取り上げない」といった『セキルール』によって、
得点としないことの合理的根拠を与えているのであり、
もはや七条の部分死活は直接的には関係ない事が分かる。
ということはつまり、本因坊秀哉と久保松勝喜代の手入れ議論や、呉清源の手入れ事件も、
実のところは、死活を全局的に考えるとか、部分的に考えるかといった
「死活論」の話ではまったくないのである。
ではその本質は何かと言えば、単純に、劫の目を得点として数えるか否かという、
セキのルールと同じような得点法の問題だ。
したがって、石+地+手止まり代を得点とする方式と、地+ハマを得点とする方式は、
劫の目とセキの目を得点とするならば完全に同値である。
ところがそれは、石のみを得点とする純碁とは完全には一致しない。
中国式(切賃あり)であろうとも、劫の目やセキの目をすべて得点として数えてしまうことにより、
打ち切った局面にもかかわらず純碁と結果が変わる例がある。
○○●●○┬○●●
○▲○●○○○●×
○○○●○┼○●● (▲は白のハマ)黒★劫取りに、白パス、黒パスで終局。続けて白Bは超劫。
├○○●○○○●●
○○○●●●○●×
●●●b●○●●●
●a●●●○○●A
├●●○○┼○○●
●┴●○┴○○★B
純碁=黒1目勝ち(黒A白Bと譲る代わりに黒a,bに手入れしても結果は同じ)
中国ルール+切賃=黒5目勝ち
中国ルール=黒3目勝ち
日本囲碁規約=白1目勝ち(ただし上図のままで終局すると、ABおよび×は地でなく白2目勝ち)
ルールが変われば結果も変わるという良い例。
×○●●┯○●●×
○○○●┼○●○○
●●●●○○○○● 黒白共に×と相手石を取り上げる手は攻め合い負けとなるため打てない。
○○○○○●●●●
●●●●●●●●●
┠●●●●●●●●
●●○○○○○○○
┠●○○○○○○○
●●○○○┷○┷○
純碁=黒1目勝ち
中国ルール+切賃=持碁
日本囲碁規約=白1目勝ち
こちらもまた、中国ルール+切賃であっても純碁と結果が異なる。
というわけで、本因坊や呉清源ですら、問題の本質的な切り分けや分類ができずに混同していたのだという分析を提起しておく。
本劫手入れ必要か否か?それは、単なる得点法の問題なのである。 >>887
最後の図は黒が4子抜いて攻め合い勝ってるんじゃない? >>881-887
全て間違い
コウなんて些細な問題であって全くルール問題の本質とは関係ない
スレを最初から読み直せ >>879の本題の続き
2.(当時の)国際ルールと旧規約の対応関係
現在では棋院自身も認めているように囲碁は日本で誕生したものではなく
大陸から伝来した国際的なゲームである
国際競技のローカル規約を作る場合には国際ルールとの対応関係を明らかにして記す必要がある
例として>>827にチェスの場合を示しておいた
当時の国際ルールは伝統ルールであった(中国に現代ルールができる前なので)
伝統ルールは京都学派によって研究され成文ルール等の公表もすでに行われており
当時の棋士達には広く知られていた
それでは旧規約では国際ルールとの対応関係はどのように記されているのか?
旧規約では国際ルールの存在自体が抹消されているので対応関係は不明であり
「日本棋院の名とその権威とにおいて」天下り式に規約を宣言しているだけである
このようなローカル規約は正当性がないとされ公的に認められないのが普通である
勝手に変なルールを作られて「囲碁」という名前を使われると混乱するからだ
実際、棋院が旧規約を公表したことで大きな混乱が生じて現在のルール問題になる
国際ルールとの対応関係が不明であることが日本ルールの最大の問題点であり
この問題は新規約でも解決されていない 3.旧規約上で行われるゲームの名称
旧規約は日本式囲碁の慣習をまとめたものである
したがって旧規約上で行われるゲームは日本式囲碁ということになる
しかし日本式囲碁には公式の名称がない
昔の碁打ちは囲碁のつもりで誤解をして日本式囲碁を打っていたので
日本式囲碁も囲碁と呼んでいたがローカルには問題は生じなかった
だが国際的な状況では誤解を正して「囲碁」とは区別できる新たなゲーム名をつける必要がある
旧規約では旧規約上で行われるゲームの名称をどのように定めているのか?
旧規約では「囲碁」を日本式囲碁の意味で誤用しており
特に日本式囲碁を指す名称は定められていない
それ故に旧規約上で行われるゲームの名称も不明である
この問題は新規約でも解決されていない 改めてルール問題を整理しよう
俺の意見を知りたいという人が多いので俺の個人的な意見も書いておく
囲碁というのは伝統ルールのことであり
そこから改変して生じたのが現代ルールである
現代ルールを囲碁と呼ぶのは厳密には誤用であるが
個人的には伝統ルールとの混乱が生じない文脈であれば問題ないと考える
伝統ルールにも様々な種類があるがルールの根幹部分は歴史的に定まっており
細則が違うだけであるので国際的に統一競技にすることは容易である
現代ルールは数十年前にできた新しいルールであるので
国際的に普及はしているがまだ歴史的に骨格が定まっていない
また現代ルールは存在の必要性もないことから廃止したとしても問題は生じない
個人的には現代ルールは特に気にするようなものではないと考えている ルール問題の本質は
日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
他の競技であれば、そんな日本ルールは認められないということで無視して終わりだが
囲碁の場合には政治的に日本ルールを無視できないという点が問題になっている
建設的な解決策としては対応関係を明確にするしかない
具体的には以下の3つのどれかだろう
A.日本ルールを伝統ルールの一部とする
切り賃と交互着手義務を復活させる規約改正を行えばよい
ルールを旧来の伝統的な形に戻すだけであるので理論的には問題はない
棋院のメンツのみが問題になる
B.日本ルールを現代ルールの一部とする
交互着手義務を復活させる(もしくはパス代と手番コミを導入する)規約改正を行えばよい
交互着手義務なら旧来の形(の一種)に戻すだけ
ただし日本ルールは現代ルールの誕生前から存在しているので理論的にはおかしなことになる
棋院のメンツも問題になる
C.日本ルールを日本伝統の固有ルール(日本式囲碁という固有のゲーム)とする
歴史的にはこれが最も正しいあり方
「日本式囲碁」等の別の名前を付けて大陸の囲碁とは完全に区別する
国際大会やアマの大会は囲碁のルールで行い、国内の歴史的な大会は日本式囲碁で行うという住み分け
規約の改正も用語の一部を修正するだけでいい
個人的にはC案が一番いいと考えるが議論の余地が大きいところだろう >>892
> 注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
> 「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
「日本人が地を競うゲームの事を囲碁と呼んだ」ことについて誤解は全く無い
千年の歴史のある日本語の単語の定義を勝手に変えて使うのは通用しないのでは? >>890
今調べると囲碁の国際団体についてウィキペディアに
> 1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、
と書いてあるけど
その国際ルールとはどういう人たちが決めて
どのような人たちがどのような機会にどれくらい打っていたの? >>889
>コウなんて些細な問題
だってよw
知恵遅れ君の頭の中では日本ルールも現代中国ルールも伝統ルールも全部同じなんだろうな
劫の問題が些細な違いにしか思ってないから囲碁関係者が頭を悩ませているルール問題が認識できない
棋院がなぜ日本ルールに拘っているのかも理解できない
分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
どうしようもないなw そもそも「伝統的な国際ルール」なんて存在しないしww
囲碁の国際大会が始まったのなんてほんの半世紀程前の出来事だぞ
歴史ある伝統的な国際ルールなんてものがあるというのなら、
それが確認できる歴史的文献を示してくれ
単に「伝統」というだけなら国や地域の数だけ存在する
日本ルールだって立派に「伝統ルール」だ
まあシナ人の偏った頭の中には大陸の伝統しかないんだろうけど まあこの際、一億歩譲って日本の碁は独特な「日本式囲碁」だったと仮定して、
それでなんで日本式囲碁は国際大会をやっちゃならんのかもさっぱり意味不明
柔道は日本式武道だから国内限定だってかww
キミ相変わらず頭オカシイネ 定期的にこのスレ盛り上がるな
まあ突っ込みどころが多すぎるアホが常駐してるからしょうがないけど たしかに「コウなんて些細な問題」とのたまう御人が囲碁のルール問題を論じているのには、おれも驚いたわ >>161
これ本当に白先黒死か?
白先でも万年コウでしょ
八目中手ってなんだよ 棋力が低く死活の判断ができないまま終局した場合ってルールの問題と関係なくね?
そんなの碁会所でもしょっちゅうあるしたいてい高段者が裁断して双方納得だろう
『切り賃』 『純碁』とかの話も囲碁の歴史としてはそうだったんだみたいに関心はするけど現代のルールとは直接関係ない
また『中国ルール』『日本ルール』『韓国ルール』など現存する様々なルール統一に役立つとも思えない
そもそもルールを統一する必要あるか?
プロの対局なら日本式でも中国式でもルールの不備で終局後に問題が起こることはないだろう
昔、呉清源が俺は日本人じゃないから日本のルールに従う義務はないとごねて
手入れが必要なのに手入れしなかった例はあるよそりゃね、こんなのはただの嫌がらせみたいなもんだろう >>894
囲碁っていうのはもっと遥か昔から大陸にあってそれが日本に伝承されたものだ
棋院のページでも見て勉強してくれ
無知すぎる書き込みは荒らしにしかならんぞ
>>898
日本式囲碁を囲碁のローカルルールとせずに独立したルール(ゲーム)として取り扱う場合
日本式囲碁の国際大会をやるのは別に構わないが囲碁の国際大会とは区別する必要が出てくるという話だ
将棋の国際大会がチェスの国際大会と区別されているのと同じこと
>>899
全くその通り
バカが荒らすからまともな人が敬遠して議論が進まない
>>900
コウなんて現代中国ルールでも途中で変わっているし現代ルールでも伝統ルールでも日本式囲碁でもローカルルールごとに様々だ
そういうのは細則と言って地域ごと、大会ごとに自由に決めていい細かいルール項目に当たる
コミや持ち時間等も同じ
>>902
本人同意を優先するか審判判定か、機械判定かは本質ではないと俺も思う
歴史の話はルール問題の本質だ
>>893を読んでから意見を書いて欲しい
ルール統一もそこが一番の問題になっている >903
石を競うゲームが大陸で生まれて囲碁と呼ばれたことの話はしていない
地を競うゲームが日本で生まれて囲碁と呼ばれたことの話をしている
それが千年前から別のゲームとして並立していたにしろ
千年前から同じゲームとされていたにしろ >>903
囲碁の歴史と現代のルールを無理に関連付ける必要はない
『切り賃』だの『純碁』だのとかは囲碁の歴史(ルーツ)研究の世界だけでいってろての
ローカルルールを認めてるんなら中国ルール、日本ルールいろいろあっていいだろう?
ルールによって半目勝負の結果が違う場合があっても最初からどのルールでやるか決めてるんだから別に問題ない
千年以上前の遣唐使の時代からほぼ現代と同じだよ
遣唐使の中に囲碁の棋士がいて中国の棋士と打った棋譜が残ってるじゃん
鎮神頭とか妙手も玄々碁経で伝えられてるし
1300年前に中国棋士と日本棋士の対局がとくに問題もなく打たれていたってこと >>893
>ルール問題の本質は日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
伝統ルールって?
現代ルールって?
日本ルールがおかしいと言いたいことだけは分かるけど現存する他のルールはどうなの?
日本式囲碁(日本ルール)?とかわざわざいってるけど結局どうしたいの? 1.ルール問題の本質が歴史問題だと思いこんでるところからして全くずれてる。
自然法則は神が創造したルールだと宣って地動説を否定する中世のカルトのよう。
2.中国ルールでも現在は、石の生存権のみではなく、石と地を争うゲームに変化している。
そして切賃もなくなった。だったら、ゲーム目的も『細則』でいいでしょ。
3.極めつけは、コウやコミは自由に決めていい細則だという都合良すぎる持論。
じゃあ端から統一ルールなんて幻想なんだから、日本式だけ区別する必要もない。
おまえのレスから読み取れるのは、人参が嫌いピーマンが嫌いというレベルの、個人的な好き嫌いということだけ。 >>893
>ルール問題の本質は日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
>他の競技であれば、そんな日本ルールは認められないということで無視して終わりだが
>囲碁の場合には政治的に日本ルールを無視できないという点が問題になっている
いったい誰が何処でそんなことを問題にしているの?
>>892
>また現代ルールは存在の必要性もないことから廃止したとしても問題は生じない
>個人的には現代ルールは特に気にするようなものではないと考えている
今現在どんなルールで碁を打ってるんだろう
ていうかこの言い方だと中国ルールも韓国ルールも他のルールもそれぞれ独自の碁に似た別な競技(ゲーム)ということになっちゃう
相手するのが馬鹿々々しくなってきたw >>904
囲碁は日本で生まれたものではない
ここがポイントだな
囲碁ルールについておかしなことを言っている人々は囲碁が日本由来だと勘違いしている
囲碁を日本のゲームだと思っているからとんでもないことを考えてしまうんだな
>>905
切り賃も純碁も数十年前まで世界の標準ルールだったし現在でも囲碁の伝統ルールはそれしかない
歴史上の国際対局も伝統ルールに基づいて行われている
そのことは本因坊等の記録にも残っているし歴史的な棋譜や裁定も(現在の日本ルールではなく)純碁の結果と一致している
問題は日本ルールが自らをローカルルールとして認めていないことであり
そもそも日本ルールってどういう立ち位置なの? 囲碁と呼んでもいいものなの?ってところから何も決まっていないことなんだ
>>906>>908
少しはスレを読んでから書いてくれw
基本的な知識がなさ過ぎると荒らしにしかならない >「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
日本語にはこのゲームの名前として「囲碁」以上にふさわしいものはない 人々が合理的に動くものなら「地を競うゲーム」を囲碁と読んだことに合理的な理由があるだろう
その名前を変えようとしてもうまくいかない
人々が合理的に動くものでないなら「合理的に言えば「地を競うゲーム」は別の名前で
よぶべき」なんて言ってもなんの意味もない
その名前を変えようとしてもうまく行かない >>910>>911
もう完全にキチガイレベルだな
囲碁という言葉が日本語でない(外来語である)ことすら気付かないんだから
昔の日本人は自分達は囲碁をやっていると勘違いしていたんだ
世界の囲碁には様々なローカルルールがあるから日本ルールもローカルルールの一種だと考えていたんだろうな
それはそれで一つの考え方として賛否は別にして有りうる考え方だ
問題は現在の日本ルールの立ち位置が定まっていないことにある
伝統ルールのローカルルールの一つなのか?
現代ルールのローカルルールの一つなのか?
囲碁から派生した日本固有の独自ゲームなのか?
日本ルールの立ち位置はどうあるべきなのかについて建設的な議論をしようじゃないか その一貫した原典至上主義には感嘆するけど
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/098.html
>外来語は、日本語の一部です。
外国語が外来語になった時点で元の意味とは別れた独自の意味を持つのは
ふつうのことだ
カルタしかり、カルテしかり 囲碁という言葉が外来語だから日本語でないとは、それこそ完全にキチガイレベル 1.日本ルールが碁でないと言い張ってる馬鹿は、実際にそれぞれのルールで打ってみて比べたことがないド素人だろうとしか言いようがない
ド素人がググって聞き囓ったような中途半端な知識で偉そうに語るのは荒らしにしかならない
2.碁が中国由来であることは誰でも知ってる常識レベルの事実だし、棋院のページにも書かれている
みんな知らないかのように決めつけているのは、不都合な真実から目を背けたいがための捏造
3.不都合な真実というのは、ルール問題において歴史や伝統はあくまで二の次であり重要ではないという事実
「由来」に固執して伝統ルールに拘る考え方を「不合理」という
それは棋院が「地」に拘っているのとまったく同じ感情だ
でも人間は科学の進歩で物事を合理的に考えるようになった
合理的な考え方とは、歴史や伝統に縛られない客観的な見方をいう
ゲームのルールは基本、ゲーム性や利便性や実用性で考えるのが当然
4.日本の碁の権化である本因坊家が純碁式で裁定していただと?>>909
そりゃあ初耳だ、ぜひ実例を紹介してほしい
5.世界語となっている「Go」は明らかに日本由来の言葉
中国だったら発音は「Qi」のはず
つまり、キチガイの語る「(謎の)伝統ルール」とやらはネアンデルタール人と同じように一度途絶えたんだ
いま栄えているのは同時代に分化したホモサピエンスのように、「日本ルール」から発展したもの
6.「外来語は自国の言語ではない」などと言い出したら、
フランス語やスペイン語やイタリア語あたりのヨーロッパ圏の言語はみんな一緒くたになってしまうな ところで、石を囲めば取れると教わったけど、終局後は囲みきらない取り上げてしまうよね。
ルールに一貫性がないんやけど。なんで?いいの? 囲まれた石は死んで取り上げられる
敵地で味方に見殺しにされた兵士は生きるだけの土地がなければ殺されなくてもそのうち飢え死にする
終局したということは、双方がその死に合意したということだろ 合意すれば取り上げることが出来るなら、囲めば取れるルールなんて最初から必要ないじゃんか。 日本ルールについて誤解が多いが、死活確認は合意によって行われるわけではない
合意しなければ規約七条に則って判定するまでのこと だから死活確認ってなに?
囲めば取れるのルールに、何の確認が必要なの?ダメがあいているかどうかの「確認」なら分かるけど、そういう意味で使ってないよね 死活確認も勿論「囲ったら取れる」という基本ルールを大前提にしているよ
「囲ったら取れる」というルールを一歩飛躍させて、
「お互いがパスしてゲーム継続を放棄した後には、
どう足掻いても最終的に囲まれて取られる石も死石となる」
これも囲碁のルール そういうルール?
囲碁入門のいろはの「い」で覚えた、囲み切ってからから石を取る、終局処理では、それをしないってルール?
もし囲み切ると、自分の「地」が減ることになることはわかるけど、ルールの一貫性を無視して、なんで囲みきらないで(地を減らさないで)勝負の計算が合うんですか?
そこがわからない。 >>922
棋院のルールを引用
> 囲碁は、「地」の多少を争うことを目的として、競技開始から第九条の「対局の停止」までの間、両者の技芸を盤上で競うものであり、「終局」までの間着手することを「対局」という。
> 一方が着手を放棄し、次いで相手方も放棄した時点で、「対局の停止」となる。
終局したらもうそれ以降は囲碁の対局ではない
対局中のルールはおよばない
例えば交互に一手ずつ石を打たない あるいは逆に、対局中に終局後のルールは及ばない
> ハマをもって相手方の地を埋め、双方の地の目数を比較して、その多い方を勝ちとする。
対局中に、『ルールは一貫しているべきだから今地の多い俺の勝ちだ」
なんて言っても誰も聞かない
囲碁は対局後に勝敗が決定するゲーム
対局後に勝利することを目指して打つゲーム 疑問と答えが全くかみ合っていない。
こういう疑問は碁を覚えていくつれ消滅していくんだろうね
だからこそかみ合っていないんだろう
ハマを埋め戻さない中国ルールなら起こらない疑問でもあるけどね >>922
なにをもって「ルールに一貫性がない」なのか理解できないのだけど
(たとえばサッカーでキーパーが手を使うのはオカシイ!みたいな?)
まあ一人でそう考えるだけなら憲法で自由は保障されている
とはいえ、終局後も囲み切らないと石を取れないルールで碁を打ってる人はどこにもいない
なぜなら、捨て石になるわけでもなくただ取られるだけの石を敵陣に打ち込んで
それが有効手になってしまうようなゲームは大方の人間にとってくだらないだろうからな
あと「計算が合う」っていうのも、いったいなにと比較して「合う」なのかな? >>926
上の質問の焦点は、囲みきらなくても終局後に死石を除去してよいかどうかであって
ハマを埋めるかどうかなんてそれこそ答えが噛み合ってないのだが。
中国ルールだろうと合意による死石の除去は当たり前にやってる そして、合意できなければ、中国ルールならそのまま実戦解決すればいいが、
日本ルールであっても、終局盤面を棋譜なりカメラなり別の盤なりに保存しといて
待ったなしの死活決着対局でもやれば解決する問題
なぜだが日本ルールでは高段者を呼んでこなきゃわからないなどと思われがちだが
そんなものが本当に必要なのか?
つまり、中国ルールの実戦解決の利点というのは、
終局盤面を保存する手間が省けるという程度でしかない
しかしスポーツなどでカメラ判定が意図も容易く行われている現代において
それはたいした利点ではないな 質問です
中国ルールでは終局後一方の石と地を数えて180.5から引くといってますが
セキがある場合180.5を適用できないような気がするんですが違いますか? どう考えて適用できないと思ったのかな?中国ルールでは
1.セキの地(同色の石に囲まれた空点)も数える
2.終局後の盤上に存在するのは、黒白の石と地、そしてセキのダメで全てであり、その合計は361で不変
3.セキのダメは折半する(つまり、計算の際に0.5として数える)
…以上により、180.5は常に変わらない
セキのダメを「黒白ゼロ」ではなくて敢えて0.5として数えることで、
180.5という数字は変わらないわけだ >>931
レスどうもです
え〜と通常のセキだと黒白どちらも打てないダメが二つ残る
その二つのダメは黒白どちらにも属さないから黒白の地と石の合計が361-2で359になるのではないかと >>931
セキのダメを折半するって、そうなの?
セキのダメを数えてるんだそれは知らなかった
932はなかったことに 囲碁クエストの中国ルール、たまにダメをつめずにパスする輩がいて、
そういう時は自分の地にもどんどん石を置いて2眼のみにしてやる
こっちの地は2目しかないと相手は思っているだろうが、結果はこっちの大勝
あはは >>913
つまり囲碁は外国の言葉であったが日本に輸入されて意味が変わって元々の囲碁とは別のものを表すようになったと主張したいわけね
言い換えると日本語の「囲碁」は他の国の囲碁とは別の意味であって別のゲームを表すという主張になる
だったらまずはそのことを文献で証明しないと
棋院や囲碁関係者でそういう解釈をしている人は誰もいない
大体「囲碁」が元々の囲碁と意味が違うのなら元々の囲碁を表す言葉が別に存在しているはずだ
(例えばカルタの場合はトランプやカードゲーム等)
全く根拠のない独自説(非常識)を書かれても困る
それから念のため「囲碁という言葉が日本語でない」というのは日本発祥の日本語ではないという意味だからな
国語力があれば文脈で分かると思うが
あとカルテ等の和製外国語は日本発祥の日本語であって外来語ではない
>>915
1と2は荒らし的に書いた煽りということでいいね
3の「ルール問題において歴史や伝統はあくまで二の次であり重要ではない」という意見は私的な意見として聞いておくが
棋院を含めて世界中の囲碁関係者は囲碁の歴史や伝統を大切にしているからその意見は相手にされないだろう
俺もこれ以上は相手にするつもりはない
あと「重要ではない」という意見だからと言って歴史を捏造をしていいということにはならないからな
「ネアンデルタール人と同じように一度途絶えたんだ」とか書いていて恥ずかしくならないのか?
4と5は無知という他はない
6は「外来語は自国の言語ではない」等とは誰も言っていない藁人形 >>916
伝統ルールや現代ルールでは両対局者の合意の下で終盤を省略しているだけ
省略せずに最後まで打ち切ればこうなるだろうという局面(目数)を両対局者が合意して勝敗を決める
合意できなければ実戦決着
日本ルールでは両者の合意ではなく基本的には審判が規約に基づいて判定する
この時の個別の判定の是非は別の問題だとして
審判が判定すること自体は特に問題になるようなことではない
伝統ルールや現代ルールでも審判判定を採用することはできる 結局これについては誰も意見を書けないのか?
情けないな
>問題は現在の日本ルールの立ち位置が定まっていないことにある
>伝統ルールのローカルルールの一つなのか?
>現代ルールのローカルルールの一つなのか?
>囲碁から派生した日本固有の独自ゲームなのか?
>日本ルールの立ち位置はどうあるべきなのかについて建設的な議論をしようじゃないか 日本人なら祖国の日本ルールを国際ルールとして普及させようと考えるのは当然
そこに理由など必要ない おまえ自身が答えを書いてるんだけど
>世界中の囲碁関係者は囲碁の歴史や伝統を大切にしている
だったら棋院が日本ルールを大切にするのは当然
それを非難するのはおまえ自身が矛盾してるんだが?
あと、ルールが合理的に進化することは捏造とは言わないんで、いい加減誤用はやめたまえ
棋院はちゃんと、囲碁は中国で生まれたゲームだという歴史をサイトに載せている
https://www.nihonkiin.or.jp/teach/history/ まーたバカのひとつ覚えで【囲碁関係者(妄想)】のおでましか
現代ルールが伝統ルールから直接進化したものでないことは
まさしく囲碁関係者であるメイエンの
http://www.go-en.com/golax/jungo/ohmei.html
の記事等も参考資料にして書いてるわけだが、
となると捏造しているのは囲碁関係者なんだな
さらに、日本の碁で受け継がれてきたセキを数えない習慣は
あんたのいう伝統ルールとは明らかに反しているはずなんだけど
本因坊家はセキを数えていたんだ?
無知というのなら
「だったらまずはそのことを文献で証明しないと 」
「棋院や囲碁関係者でそういう解釈をしている人は誰もいない」
何から何まで適当に思いついただけのデタラメを
「書いていて恥ずかしくならないのか?」 >>935
「地を競うゲームは千年くらい前に日本で生まれた、石を競うゲームとは別のゲーム」というのはあなたの主張でしょう
あなたはその地を競うゲームは日本では歴史的に何と呼んでいたと考えていますか?
という話ですが。
私の「そのゲームは千年間囲碁と呼ばれた」という主張は気違い呼ばわりされるほどのものなのですか?
私の主張は、地を競うゲームと石を競うゲームは同じゲーム
千年間日本人はそれを同じものと考えて同じ名前で呼んだ
です。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。