■■囲碁のルールを語るスレ■■
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
一方で誤用や歴史改ざんが広まりすぎて現実的に解決が難しいのも事実ではある
メンツや政治的な問題もある
本来ルールは囲碁を楽しむ人のためにあるべきなんだが
囲碁ルール問題は深刻なんだよな バカに構うのは避けるべきだがメイエンの名誉のために一言だけ書いておく
現行の中国ルールが日本ルール由来だというのはメイエンの見解ではなく誰でも知っている常識的事実
メイエン(を始め棋士達)はルールが変更された等というバカなことは当然言っておらず
古来からの碁(純碁)のルールが変化(進化)して日本式囲碁が生まれたと言っている
純碁は当然、碁であり、日本式囲碁は新たに加わった新種であるが、ルールに優劣はないという立場だ 結局純碁というのは「相手が打てなくなったら勝ち」というゲームで「盤上の石の数を競う」のは便法
「盤上の石の数を競う」は「相手が打てなくなったら勝ち」より明快ではない >>736
言いたいことは分かるが論理的に同じことなら表現を変えても同じだ
どちらが便法だとか明快とかなく単に別の言葉で言い換えているだけ
あと何度も言われているように歴史的には「盤上の石の数を競う」という方が本来の表現だ
これは主義主張の話ではなく歴史的な事実なんだ >>737
それは終局の同意を拒み続ける奴を排除すればよかったからだ。
「相手が打てなくなったら勝ち」なら終局の同意はいらない。 >>738
純碁では終局に同意は必要ない
両者パスで決まるから負けている方がパスをすれば両者パスで負けが自動的に確定する
だから「相手が打てなくなったら勝ち」と同じだ
もちろん着手やパスを拒否するという選択肢はあってその場合は時間切れに頼るしかないが
これはどんな状況やルールでもターン製のゲームなら発生することなのでルールの問題とはいえない >>739
着手が義務ならパスした時点で負けだろ? >>740
純碁は着手権利だ
そもそも着手義務(もしくはパス代)が必要なのは日本式だけで純碁も中国式も着手義務ではない
さらに着手義務ならパス自体が存在しないので負けではなくパス自体ができない
それ以前に着手義務であっても「相手が打てなくなったら勝ち」と同じだ
一文にこれだけの間違いを詰め込めるなんて天才だなw >>741
着手義務なんだからパスの意思表示をしたら反則負けということ 囲めば取れる
相手が打てなくなったら勝ち
これ以上に簡明な話があるか?
盤上の石の数なんて副次的なものでしかない。 >>742
ルールにパスの規定がないんだからそんなルールはありえないw
パスの意思表示をしても反則でもなんでもなく無視されて時間切れになるだけ >>743
あなたの意見は十分に分かった
これ以上、相手をするとスレが荒れるのでここまでにするよ >>745
君こそが荒らし
石の数を競う理由が説明できないまま本質本質と連呼しているだけ 「碁」が誤用だとか言ってるバカは現代語使わずに古語でも話してろよ
もっとも古語もこいつの考え方じゃほぼ全て誤用だけどな
当然常用漢字も使用禁止な
百歩譲っても康煕字典体、正しくは甲骨文字ないしさらなる原初の文字
ひらがななんぞ論外だ このスレの新参だけど、「盤上の石の数を競う以外は『碁』と呼ぶのは歴史的に間違い」ってのにはついていけんなあ
マラソンは今は42.195kmだけど、オリンピックの最初のころは40kmで競っていたらしい
「40km以外はマラソンって呼ぶのは歴史的にみて誤用」って叫んでるようなものだ
碁のルールに混乱している部分があるとしても、呼び方が原因でもないだろう 「純碁でパス禁止」「相手が打てなくなったら勝ち」
てのも明らかに別ゲーだからな
こういう図を考えればすぐにわかること
┏●●○○○○
●┼●○○○○
┠●●○○○○
●┼●○○○○
┠●●○○○○
●┼●○○○○
┗●●○┷○┛
黒ハマ0
白ハマ12 >>749
まず前提として日本式囲碁の場合はゲームの目的自体が変わっている
またルールが変更されたわけではなくて大陸の囲碁も日本の囲碁もどちらも1000年くらい前から共存して現在に至っている
例えは難しいんだが陸上で言うと幅跳びと高飛びみたいなものかな
長い距離を飛んだ方が勝ちという幅跳びが大陸で数千年前からあったとして
新しく高く飛んだ方が勝ちという高飛びが日本で千年くらい前にできたとする
どっちも飛翔力を競うという意味では似ているが別のゲーム
この時に高飛びを高飛びとは言わずに幅跳びと呼んで
幅跳びというのは高く飛んだ方が勝ちというゲームであると辞書にも書いて
幅跳びは大陸に数千年前からある競技であると言って
幅跳びの統一ルールを作るべきであると主張して全然話がまとまらない
現在の囲碁はそういう状況なんだ >>750
まず純碁ではパスは禁止されていない
その局面は黒がパスをしないとできないので黒がパスをした時に白もパスをして
その時点で終局となって盤上の石が多い白の勝ちとなる
「相手が打てなくなったら勝ち」というのは昔からある言い換えではあるんだよ
「盤上の石の数なんて副次的」というのはおかしいけどね >>750
あっすまん
黒がパスしなくてもできる可能性はあるか
その場合は「相手が打てなくなったら勝ち」の言い換えは成立しないな こいつこれで囲碁初心者だからな
野球ど素人のくせに自分が監督やったら優勝できるような口ぶりのやつがたまにいるがそれと同じ
なんの役にも立たない木っ端だよこいつは >>751
いやそれは「幅」とか「高」とかの一般名詞が入っているから、呼び方が違うと混乱するのは当然だよ
「碁」は一般名詞ではないから、今の碁を「碁」と呼んでも何の混乱もないだろう >>755
問題は飛んだ「長さ」を競うか「高さ」を競うかという目的の違いであって
「幅」という文字が入ってるかは関係ない
>>751の「幅跳び」を例えば「ジャンプ競技」に変えても混乱状況は変わらない
実際に囲碁でも混乱しているわけだし 「目的の違い」が重要なのはわかってるよ
だからこそ「呼び方の違い」は副次的な要素なんだよ
今これだけ地を競うゲームを「碁」と呼んでして定着してるのに
、いまさら「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」なんていうのにはついていけないなって言ってるんだよ 混乱している実例として>>755のいう「今の碁」とは何のことなのか?
大陸に数千年前から現在まである「盤上の石の数を競う」ゲームのことか
日本に千年くらい前から現在まである「地の多少を競う」ゲームのことか
「今の碁」があるということは「昔の碁」があるということだろうが単に「碁」と言った場合にはどちらのことなのか?
もし「碁」という言葉が大陸の碁と日本の囲碁を両方含むものだとしたら両者をどう区別すればいいのか?
また「碁」を「地の多少を競う」ゲームとだけ説明するのはおかしいということにならないのか?
全ては言葉の定義から生じている混乱なんだよな >>757
>今これだけ地を競うゲームを「碁」と呼んでして定着してるのに
これが正に混乱そのものでしょw
「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲームであって
棋院の言う数千年前に大陸でできて日本に伝承されたゲームではないんだから >>758
仮にあなたのいうように言葉の定義を整理する必要があるとしても「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」ということなんでしょう? >>760
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」というのは言葉の定義を整理する方法論の一つだ
誤用を正すというのは論語にもあるくらい最も普通のやり方だからな
もちろん言葉の定義が整理できれば別の方法でもいい >>761
じゃ最初からそういう柔らかい言い方をしなよ
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」というから最初から結論ありきで、それ以外は聞く耳を持たないようなニュアンスだから反発を呼ぶんだよ >>762
柔らかい言い方をしていたら伝わらないことがあるんだ
敢えて直接的なトゲのある言い方をすることで問題点が浮き彫りになる あえて反発を呼んで問題点を浮き彫りにする手法をわざわざ取ってるならこれ以上言わない。ただしあまり気持ちのいいやり方ではないな >>764
もし気持ち悪く感じたとしたら、その感情こそが囲碁ルール問題の根源なんだな
歴史起源通りに碁を「盤上の石の数を競う」ゲームに限定したくない(むしろ「地を争う」ゲームに改竄したい)何らかの感情が働いているわけだ
この感情が論理に基づくものではないことは切り賃論争ですでに分かっているわけだが
どういう感情なのかという詳細はまだ理解しきれていない 不用意にバカに構って籠絡されてるアホもいるようだが、
そもそもの大前提として地か石かでルールの混乱などまるで生じていない
中国ですら切り賃なしを受け入れている
>問題点を浮き彫りにする手法をわざわざ取ってる
のではなく、火のないところに煙を立てているだけだ
黒板を引っ掻く音やゴキブリが気持ち悪がられるのと同じように
切り賃が気持ち悪い(かったるい)と感じるのは特に理由のない人間の自然な感情 >>765
なんか勘違いしているようなので一言言っとくが、「気持ちよくない」というのは、あんたのその手法(わざと反発を呼ぶ)のことなんだ >>750
別ゲーになるというのはおかしい
コミ碁とコミ無し碁は別ゲーと言ってるようなものだ >>767
わざと反発を呼ぶとは言っていないし注目を浴びることを目的とした所謂炎上商法的なやり方もしていない
問題点を浮き彫りにするために直接的なトゲのある言い方をしていると言っている
正論をストレートに言った時にトゲに引っかかる部分というのが問題の本質になっているんだ
今回も実際に「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」という正論をぶつけられた時に
心に引っかかる部分が囲碁ルール問題の本質になっているわけだな >>769
>言葉は語源による正しい使い方をするべき
お前本当にそんな日本語使ってんのか?
もともとの語源とは離れた意味になってる言葉や漢字なんか現代日本語には腐るほどある
お前も今のところ平気でそういう言葉を使ってる
きちがいもここまで来ると大したもんだと言いたいところだが、
有言実行ということで完全に語源に乗っ取った、意味の変化を一切許容しない日本語を披露してほしいものだな
日本語の専門家でも不可能に近いはずだが 「おいしい」は「御・美(い)し」で「好ましい」「すばらしい」などの意味だった
それが江戸時代ごろに「美味」の意味を持つようになったとされる
このバカは「おいしい」と口にするやつを不快に感じるらしい
もちろん「おいしい」に限らず、ありとあらゆる日本語を不快に感じることになる
生きてて辛くないのだろうか 769の最後の三行、この人本当にこんなに考えてるなら驚きというか浮世離れとしか言いようがない
このスレ内だけじゃなくて、日常に出会う一般の人間ときっと普通の会話できてないだろう さて、歴史起源通りに碁を「盤上の石の数を競う」ゲームに限定したくない
むしろ「地を争う」ゲームに改竄したいという感情はなんなのか?
今のところ考えられる理由の仮説
1.若い頃に習ったから周りに誤用している人が多いからという慣性によるもの
2.棋院も誤用している(囲碁規約)からという権威主義によるもの
3.囲碁を日本由来にしたいという捻じ曲がった国粋主義的な感覚によるもの
4.囲碁を高尚なものだと思わせたいという偉ぶりたい感覚によるもの >>773
え?
今現在すでに「碁」っていえば(中国ルールも含めて)地を争うゲームのことじゃん
「盤上に置ける石の数を争うゲーム」のことに限定したいのはそっちじゃん 勝手に公文書(すでに定められ定着している定義)を勝手に改竄するなよ 1.若い頃に習ったから周りに誤用している人が多いからという慣性によるもの
これは自然な感情だが純粋にこの感情による場合は正しいことを知った時点で改めようとするのが普通であるし
まして積極的に改竄しようというという動機にはならない
ただし碁打ちでも囲碁の歴史起源を知らない人は多い
2.棋院も誤用している(囲碁規約)からという権威主義によるもの
これは国語改革問題や漢字検定問題等でも問題になった権威の悪用の問題
間違ったものに権威がお墨付きを与えてしまうと間違っていても正すのが難しくなるという現代社会の大問題の一つ
3.囲碁を日本由来にしたいという捻じ曲がった国粋主義的な感覚によるもの
これは世界中にその手の人々がいるが理知的な人間であれば相手にしない
とはいえ大声でノイジーで権力を持っている場合もある
4.囲碁を高尚なものだと思わせたいという偉ぶりたい感覚によるもの
「すべからく」問題と同様の話
簡単なことをわざと難解な表現で書きたいという人々がいて結果的に誤用を生み出す
囲碁のルール自体もわざと難解にしたいという人々もいるようだ こいつはどうしようもないきちがいだが、そのうざったさに拍車をかけているのが全く対話が成立しない点にある
コンピュータースレで周りの制止を無視してめちゃくちゃな主張を繰り返し、10年以上の歴史があったスレを崩壊させたのもこいつ
自分の主張を正当化しようとして適当なリンクを引っ張ってくるが、思考にフィルターがかかりすぎて記事の内容を完全に誤読すること多数
どういう定義で話を進めているのかと指摘されると「当たり前のこと」だの言ってはぐらかす
三流宗教家にも劣る低知能ボキャ貧コミュ難がこいつ 碁という言葉の誤用とその背景心理の問題は囲碁ルール問題の根源部分なので重要だが
それとは別の問題として
日本式囲碁を碁と呼ぶ誤用はもう広まりすぎているから仕方がないとして辞書に意味を加えるとした時に
碁という言葉の使い分けをどうするかという問題がある
単に「碁」というと一つのゲームであるかのように認識されているので
ポーカー等のように多様なルールのゲームの集合体だという認識に変える必要が出てくるわけだが
具体的にどうしていくべきなのか?
少なくともルールの分類と言葉の定義の問題は必要になってくる
これは碁の普及活動の問題でもあるし言葉の使い方の問題でもある 「広がりすぎて仕方がないから」かどうかは別にして、現在「碁」といえば地を争うゲームのことに限定して用いていることを認めるところからスタートしないと話にならない
終局してから「この碁は石の数を争うゲームでしょ」と言われれば誰だってお前も怒るだろう?
それを「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁といってはならない」ところからスタートしようとすることを世間では「改鼠」という そもそも「碁(棋)」って単にボードゲーム全般を意味するだけだよね
なんで言葉の問題にしたがってるのかがわからない
ルールなんて解釈の問題であってゲームとしてやってることは一緒じゃん
アルファ碁は中国ルールだろうが日本ルールだろうが基本的に同じ手を打つし同じように強い >>780
だったら囲碁の統一ルールは純碁(切り賃あり中国ルール)ということで文句ないはずだが
現実には意味不明な文句を叫ぶ人がいて話がまとまらない
囲碁の普及を妨げる要因の一つにもなっている
コンピュータ囲碁でも問題になっている
このスレを見ても分かるように囲碁ルールの話になると発狂する人が出て議論にならなくなるんだな
これは表面的には言葉の問題なんだが言葉の裏にはドロドロした心理がある なんかこの人自分の都合のいいレスにだけレスして、都合の悪いレスにははぐらかしたり無視したり発狂扱いするんだね >>782
どれのこと?
スレ違いや明らかにバカなことを書いている荒らしに構うとスレが荒れてしまうから無視しているだけだが 例えば770で「もともとの語源とは離れた意味になってる言葉や漢字なんか現代日本語には腐るほどある」という指摘には答えていない
これは決してこれまでの話と無関係なことじゃないじゃん
それから779で「現在「碁」といえば地を争うゲームのことに限定して用いていること」を認めるかどうかはっきりしてよ >>781
俺個人としては純碁が一番美しいと思ってるけど
現実には伝統がものを言っているだけであって
表面的に言葉の問題だという意味もわからないしその裏には自分の立場と好みがあるだけでしょ >>784
まず「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」というのは一般的な正論であって
これに異議があるのなら別の板でやって欲しい
その上で他にも誤用があるから「碁」の誤用もいいじゃないかということには当然ならない
車の速度違反で捕まって他のみんなもやっていると抗弁するようなものだ
しかも碁の場合には実害まで出ているのだから他の無害な例と一緒にすることもできない
「碁」のオリジナルの意味は古代から大陸にあり日本にも伝承された「盤上の石の数を競う」ゲームのことであり
現在でもその意味で使われていることが多い
上で棋院の用例を挙げたが一般の認識としても囲碁は大陸由来のゲームであるというのがほとんどだろう
ただし本来の囲碁が「盤上の石の数を競う」ゲームだとまでは知らない人が多い
大陸の碁ではなく日本で発明された「地を争う」ゲームに限定して使うことはオリジナルの意味に反するので誤用であるが
明確に誤用である(すなわちオリジナルの定義では意味が通じなくなる)という使い方も広まっている
これが正に問題であるわけだな >>785
歴史と言葉の問題には個人の立場や好みは関係ない
おれがどう思うかは関係無しに本来の碁は「盤上の石の数を競う」ゲームなんだし日本式囲碁はそれとは別のゲームなんだ
今回の件でおれは自分の個人的な意見や主張を言っていない
表面的に言葉の問題だというのは大陸の碁と日本式囲碁を言葉として明確に区別していればルール問題は存在しないということ 「もともとの語源とは離れた意味になってる言葉や漢字」=誤用
とは限らん。広く一般に使われればそれがその言葉になる
「碁」も同様
車の制限速度ですら、実測に合わせて変えることも多い >>787
本来のゲームの目的がそうなのは良しとして日本ルールが別のゲームだというのはお前の主観的な意見だよね
例えばチャトランガでは王様を取ることが勝利条件だったけどチェスや将棋ではそれが合理化されて詰めることが勝利条件となった
どうぶつしょうぎというゲームではわかりやすく王様を取ることを勝利条件にしてるけどそれを詰めたら勝ちというルールにしたらお前の中では全く別のゲームなのか?
国際棋戦が問題なく行われている時点でほぼ同じゲームとしてみんなが認識してるし残念ながら言葉の問題にはなり得ないよ
なぜならゲームの手順も結果もほぼ変わらないから >>788
そういうのは国語板(?)でやれよ
誤用は意味が通じなくだけではなく論理や認識を歪めてしまうから問題なんだな
こういう最低限の教養もないバカを相手にするとスレが荒れるから避けているんだが >>789
日本式囲碁が「盤上の石の数を競う」ゲームではないというのは囲碁規約に明記されているくらいの常識だぞ
貴方はあまりにも囲碁について知識が無さ過ぎる
あと詰みと玉を取ることは意味としては同じなんだが、なぜ「全く別のゲーム」のゲームだと思うのか(スレ違いなので返答不要) >>791
事実と意見は区別してね
「別のゲーム」「意味としては同じ」
これらが単なるお前の主観ではないという根拠は? >>790
ん?
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」といって言葉の問題にしたのはお前じゃなかったっけ? >>786
>「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」というのは一般的な正論
学問板でこれ書いてきてみなよ
どこの文系の板でも失笑を買うだけだぜ ちなみに
>「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」というのは一般的な正論
であるのなら、「碁」を石数を競うゲームの名前にあてることこそ「誤用」だな
他の人も指摘してるが、「碁」という字はもともとは単にボードゲームを指す字に過ぎない
つまり「碁」という字を石数ゲームの意味で使うのは「球」をサッカーの意味にするのと同じで、こいつの理屈に従えば「誤用」となる
ちなみに「碁」の別名は「囲碁」だが、「囲」は「かこむ」の意味だから石数ゲームの意味では使えないなあ
結局石数ゲームの意味で使える単語は中国にも日本にも、過去にも今にも存在しないようだ
残念だなあ こいつは「本来」とか「合理的」とか、この話をするにあたって欠かせない用語の定義は「辞書の通り」とかいって逃げるくせに
辞書に載ってる「碁」の定義(地を競う)を誤用だと言って決めつける
ご都合主義にもほどがあるぜ こいつが「この魚おいしいね」って言ってる女に
「「おいしい」は「美味」という意味ではなく「すばらしい」という意味だよ、語源に則った正しい日本語を使おうね」って返答するような調子の人生おくってんのならまだ分かるが、
そうでなきゃ本当にただのご都合主義だな デマを書いている荒らしが沸いているがスレ違いの内容なので訂正できないのが苛立たしいw
どうやら>>795は包含関係が理解できていないようだな
サッカーを球技やフットボールというのは誤用でもなんでもないがラグビーをサッカーというと誤用になるということが理解できないらしい
少し正確に書くと「古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯」(の総称)を碁と呼んでいて
その一つに「盤上の石の数を競う」ゲームがある
当然その中に日本の新しいゲームである「地を争う」ゲームは含まれていない
「盤上の石の数を競う」ゲームのみを指す用語はなく、碁の他のゲーム(乱碁,弾碁,格碁等)は衰退したか、
別の新しいゲームに発展して名前を変えたので(連珠等)、今ではほぼ碁=「盤上の石の数を競う」ゲームとなっている
>>796
誤用かどうかはおれが決めることではなく歴史的な言葉の定義から決まっていることだぞ >>798
なにそれ?
辞書の碁の定義が誤用なんてお前(だけ)が言ってる、すなわちお前だけが決めてるんだよ >>798
「碁」と「日本式囲碁」が別のゲームであるとする主観なしの根拠は? >>798
言ってることが全く違う
そもそも「碁」は「棊(棋)」の異体字で源義は「テーブルゲーム」
もともと「棊」という字があり、のちに材質の違いから「碁」という異体字が生まれたが、
異体字の関係にあるからもともとは両者に厳密な使い分けは存在しない
実際現代中国語では「棋」に統一されているし、日本でも「圍棊」等の字体は散見される
「碁」という文字には「テーブルゲーム」、狭義には「石を使うテーブルゲーム」という字義しかない
それがのちにもっぱら「囲碁というゲーム」の意味に使われるようになっただけ
「碁」の源義=「盤上の石の数を競うゲーム」なんてことはあり得ない
少しは漢字の成り立ちくらい勉強しろよ >>798
あと、語源に基づいた正しい日本語を使ってもらえないかね?
たとえば「新(あたら)しい」は「改(あらた)む」から派生した語で
「新(あら)たし」と書き「もったいない、惜しい」という意味で使わなければいけない
まあ平安時代ごろには既に「あたらし」に移行したらしいが、
奈良時代に「あらたし」と読まれてたのなら当然そっちが正しくて「あたらし(あたらしい)」は間違った日本語なんだよな?
お前が言ってんのはそういうことだぜ? >>799-802のバカはスルーでいいな?
誤用の意味も分かってないし包含関係すら理解できていないし語源の説明も全てデタラメだし囲碁の知識もないし小学生レベルの常識もない
(「あたらし」が誤読であるというのは確かにそういう説が一般的だがこれは音変化であって誤用とは違うという話はスレ違い)
このバカに構っていると無駄にスレが荒れるだけだ
いい加減にコテをつけて欲しいものだが いやいや絶対スルーじゃダメだろ(笑)
情けないおじさんだな
逃げてないで>>792に答えなよ >>803
だから語源に則った正しい日本語使えってんだよな〜
スルー、すなわちthroughには「〜を通じて」「〜を経由して」等の意味しかない
「無視する」の意味は近年生まれた和製英語で語源に則った正しい日本語とは言えないな
そもそもこの用法は辞書にすら載ってないか、あるいは「俗に」などの断りが入ることが多い
こいつの基準じゃ完全に「誤用」だろう
自分で問題提起しておきながら、自分が正しい日本語を使えていないのはどうなんだい? >>798
またでた
「歴史的に決まっている」
↑これはいったいなんの呪文だ?
過去は変えられないから「歴史」なら決まっているけども、
歴史的に決まっている「物事」なんて何一つ存在しないぞ。
上の方で「切り賃がなくなった合理的理由はなんだ」って
しつこく喰らい付いてスレを荒らしていたのがお前だということは
文体やバカさ加減からして火を見るより明らかだが、
今度は立場が逆転して、皆がお前に対して
「碁が石を数えるルールでなければならない合理的理由はなんだ」
と尋ねているわけだ。
それに対してお前は、「歴史的に決まっている」などという不合理、意味不明な理由しか挙げられないでいる。
さあ早く誰もが納得できる合理的理由を説明してみろ。 あんまりいじめるのもアレだから捕捉しといてやるけど、この人が言ってんのは結局ただの極論でしかないんだよな
「信号無視は犯罪である」
「犯罪者は社会から隔離したほうが人々は幸せになる」
「ゆえに信号無視を犯した君は死刑に処されるべきである」
みたいな
「そこまでする必要があるのか」
「些細な罪で死刑にしては彼の死を悲しむ人がいる」
みたいな反論には
「それは関係ない」
という調子だから全く議論にならない
もうちょい多面的な考え方ができるようになったほうがいいよこの人は 「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」
と偉そうにのたもうたのが全部自分自身に却ってきたってことだな
これに懲りてこのスレではどや顔するなよ さて話を戻そう
本来、碁というのは「古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯」(の総称)のことであり
特にその中の「盤上の石の数を競う」ゲームのことを言う
これはよく知られた歴史的な事実と言葉の定義であり、棋院を始めほとんどの囲碁関係者の共通認識である
ちなみに中国語でボードゲームは版圖遊戲などと言い
当たり前だが(荒らしが言っているような)オセロを碁や棋などと呼ぶようなことはない
一方で日本式囲碁は「地の大小を競う」ゲームであり、「盤上の石の数を競う」ゲームとは目的が異なるゲームである
これは日本囲碁規約に明記されていることであり、(荒らし以外は)全ての囲碁関係者の共通認識である
大陸の碁においてはルールが明確かつ完全であるために「ルール問題」は存在しない
「ルール問題」は地の定義を必要とする日本式囲碁に特有なものであり、
大陸の碁と日本式囲碁の混合が現在の囲碁ルール問題を生んでいる
このことも(荒らし以外は)全ての囲碁関係者の共通認識である
以上の話はよく知られている事実の説明であって、おれの個人的な見解や主観によらない さて「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」という一般的な正論がある
言葉を誤用すると、情報伝達に失敗したり、論理がおかしくなったり、認識が誤誘導されてしまったりするからだ
これは論語にもあるくらいの正論であり(荒らし以外は)社会的に広く認められている
この正論をそのまま「碁」に当てはめてみるという思考実験を行ってみると
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」ということになるが
これを実行すれば囲碁ルール問題は解決することが分かる
つまり囲碁ルール問題は言葉の問題であるとも言えるわけだ
ところが実際には「碁」の誤用を正すことには大きな心理的な抵抗が生じる
実際にこの誤用は広まっており、これは積極的に誤用を促す何らかの感情がないと説明がつかない
この感情が囲碁ルール問題の根源にあることが分かる
以上の話はただの事実と合理的な推論であり、おれの個人的な見解や主観によらない
当たり前のことだが、おれが「誤用はやめるべきだ」と主張しているわけではない(荒らしが藁人形を叩いているが) この感情が何に由来するかというのが目下の論点の一つだ
おれの考える叩き台的な仮説は>>773>>776にまとめた通り
もう一つの論点は実際に誤用が広まっているという現実を踏まえた上で
言葉の定義をどのように整理して囲碁ルール問題を解決していくのかという点
ここについてはおれは個人的な考えを持っているがまだ書いていない 自分でも何言ってるのかわかっないっぽいよね長文の人って この人はWikipediaの「誤謬」の項目でも見とくことをおすすめする
論理的な瑕疵があまりにも多すぎる
転倒した倫理観を転倒した論理で支えていることはよくあることだが、ここまで来るとねえ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC?wprov=sfla1 >>813
もし論理的な瑕疵があるのなら具体的に指摘した方がいい
指摘できないのなら荒らしになるだけだから書くべきではないな 大陸では数千年前から石と盤を使ったゲームが存在していた
それらのゲームを碁といい
その中でも特にメジャーであった「盤上の石の数を競う」ゲームは現在でも親しまれている
一方で日本では千年ほど前から「地の多少を競う」ゲームが行われている
このゲームは碁の変化形であり、日本ローカルなゲームであったが、ここ100年くらいで世界に広まった
ここではこのゲームのことを「日本式囲碁」と呼ぶことにする
「盤上の石の数を競う」碁と「地の多少を競う」日本式囲碁はゲームの目的が違うため
ルールの根幹部分が異なっており、両者を混同するとルール問題が発生する この混同は「日本式囲碁」を「碁」や「囲碁」と呼ぶ言葉の誤用に起因する
例えば「囲碁教室」と言えば、本来は純碁を教える教室であるはずだが、「日本式囲碁」を教えている
いわゆる羊頭狗肉の状態だ
この状態を正すには、言葉の誤用をやめて「日本式囲碁教室」にするか、
「日本式囲碁」のルールを変更して「盤上の石の数を競う」ゲームに合流するしかない
以上は誰でも分かる簡単で論理的な話だ
しかし現実には大きな心理的な反発が発生する
心理的な反発の原因を議論する前に
その防衛機制から生じる反論について検討しよう 反論1
「日本式囲碁」を「碁」と言うのは昔から広く使われている用語であるし
羊頭狗肉であっても狗肉であることを皆が知っていれば問題ないのではないか
この反論は実際に「日本式囲碁」と「碁」の混同が発生している現実から目を背けている
ただの現実逃避にすぎない
また「狗肉であることを皆が知ってい」るのなら堂々と「狗肉」として売ればいいだけだ
「日本式囲碁教室」とすることに何か問題があるのか
反論2
ほとんど同じゲームなんだから「日本式囲碁」も「碁」に含めて問題ないのではないか
この反論も現実にルール問題が発生していることから目を背ける現実逃避である
ほとんど同じゲームならルールが問題になることはないのだ
また仮に「碁」の定義を広げるにしても元々の「碁」の定義に「日本式囲碁」が追加されるだけで上書きされるわけではない
「囲碁教室」は純碁に加えて日本式囲碁も教える教室という意味になる
問題は何も解決しない
反論3
ルールなんてどうでもいいのではないか
だったら囲碁規約は廃止でいいな?
細かなルールに拘り、押し付けたい人々がいるからルール問題が生じているのであって
その人たちを説得できないのなら問題は解決しない 論点1.歴史を捏造するべきか?
碁というゲームは歴史的に「盤上の石の数」を競うゲームだった
この歴史的事実を「地の多少」を競うゲームだったという風に捏造するべきかどうか
岩波の広辞苑等の一部の辞書部門や棋院の一部等は捏造するべきとの考え
一方で平凡社等の出版社や一部の棋士等は歴史を捏造せずに正しく伝えている
個人的な意見としては捏造する・しないは個人の自由だと考える
自分自身は捏造はしないし捏造する人は好きではないのだが
それは個人的な感情であって捏造したい人々に捏造を禁止する合理的な理由はない
ただし事実を誤解してしまう人が出てくるので捏造を捏造だと指摘することは大切だ
特に子供にはしっかりと教育するべきだろう 論点2.「碁」の定義に日本式囲碁を加えるべきか?
歴史の捏造をしなかった場合に、歴史的な「碁」の定義を拡大して日本式囲碁を加えるべきかどうか
慣習的な言葉の誤用を容認するかどうかという問題の一つになる
個人的には容認してもいいと考える
もちろん厳密な言葉遣いをする方が望ましいが、他人に禁止するまでの合理的な理由はない
ただし本来の碁と日本式囲碁の区別は必要なので、誤解の生じない用法は必要になる
拡大された「碁」「囲碁」の辞書的な定義は以下のようになる
一、古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯の総称
二、特にその中でも盤上の石の数を競う遊戯のこと
三、そこから派生した「地」の多少を競う遊戯(日本式ルール)の呼称にも使われることがある(厳密には誤用) 論点2’.碁のルールを統一するべきか?
論点2の言葉の誤用を容認するかどうかと同じ問題
なので個人的には統一しなくてもよいと考える
碁のルールは対局者が好きなルールを自由に選んで使えばいい
大会においてはルールが公開され参加者の承認が得られているのなら問題ない
もちろん参加者には承認せずに棄権し、その事実を公表する権利がある >>820
碁のルールにそこまで詳しくないが主張は理解できるが
一種の原理主義だよ
逆に他の宗教とかの原理主義者の事例をその原理主義者たちの立場を考えて考えてみると良い ローカルルール程度の話を「言葉の御用」とまで言ってしまうことの大げさ具合がわからないんだろうな
数え方が違うから別のゲームだと連呼するのはいいけど名称を変更すべきほどの違いだとする根拠は一切答えられない
「ほとんど同じゲームならルールが問題になることはない」←意味不明な論理 >>822
歴史を捏造したりルールを信仰したりするのは原理主義というよりはカルト宗教に近いな
日本ルール教と考えるのが分かりやすいかもな
>>823
あんたはいい加減にコテつけろよw
「数え方が違う」ではなく「目的が違う」ゲームだからルールの問題になっている 囲碁の歴史捏造問題を考える上で1949(昭和24)年に制定された旧日本棋院囲碁規約の前文をテキストにしてみたい
新規約の序文も相当にアレだが旧規約のは完全にカルト教典になっている
まずは読んでみて欲しい
http://park6.wakwak.com/~igo/igorule/kiyaku.html >>825
前文を引用しようとするとNGに引っかかり投稿することができない
囲碁板で棋院規約が荒らし認定されるという冗談にもならない話だがそれくらいの内容だ
前文の全文はリンク先を見てもらって議論は部分引用(いくらなんでも大丈夫だろう)で進めよう 比較のために日本チェス規約の序文も置いておく
こちらは当然チェスと将棋を混同したりしていないし歴史を捏造したりカルト的な内容が書かれていたりすることはない
これが当たり前だ
http://www.jca-chess.com/jcatyesukiyaku.htm
この棋約( 以下日本棋約または単に本棋約という )は世界共通のゲームとしてのチェスの基本的、かつ唯一の国際統一ルールを
「 The Laws of Chess ・ 1996改正 FIDE 」に準拠して制定されたもので、
The Laws of Chess( 以下国際棋約と言う )の前言に従い、日本国領域内に於いては、国際棋約の一部である。
従って、本棋約は公的私的を問わず、日本国領域内に於いて行われる全てのチェスゲーム活動の基本であり、チェスゲームを盤上で行うときの合意事項である。
盤上であるいは競技会場で紛争が起きたとき、この棋約に従っていないものは、なん人も正当性を持つことはできない。
本棋約の適用に於いて国際棋約との間に著しい矛盾のあるときは、
本棋約の該当する条項は、JCAルール審議会により資格を与えられたものの裁定により、一時的、かつ部分的に失効する。
本棋約と国際棋約との間に矛盾とは言えないまでも、重ならない部分があった場合、その部分については、次の場合に限り初めから本棋約の条項は適用されない。
日本国領域内に於いて行われる全ての国際公式戦およびFIDEレイティング競技会において国際棋約に定められいてないことの内、
決定がJCAの指定する主催者またはアービターの裁量権の範囲を越える場合。
(以下略) さらに碁の規約の客観的な解説として旧中国ルールの英訳を置いておこう
http://www.cs.cmu.edu/~wjh/go/rules/Chinese.html
最初に伝統ルールは石の数を競うものだという説明があり、
その後に切り賃の説明があって、切り賃をなくしたものが現代ルールであるという事実が書かれている
このように、伝統ルールと現代ルールの2つのルール(ゲーム)が存在していること
現代ルールは伝統ルールの一部を改変したものであるというのが歴史的にも正しく当たり前の解説のやり方だ
ただしここでの伝統ルールというのは本来の碁のことだが
現代ルールというのは日本式囲碁のことではなく現在の中国ルールのこと
国際的には歴史捏造は許されないので伝統ルールを廃止して日本式囲碁に書き換えるというのはありえず
統一ルールというのは伝統ルールはそのままに現代ルールの国際統一をはかるものになるが
現代ルールの統一ルールを作るのか、日本式囲碁の統一ルールを作るのかでもめて分裂状態になっている
これも言葉の問題の一種である >>828
あれ?目的が違うから別のゲームだとかって持論はどこへいった?
日本の改変→歴史の捏造
中国様の改変→現代ルール
やっぱりただの売国奴じゃん ついでに、目的が違えば別のゲームってのにもつっこんでおくが、
サッカーもラグビーもホッケーもゴールポストにたくさん玉を入れるという目的は変わらないな
だったらこれらの競技はすべて同じゲームってことでいいなw さて>>825の旧規約を読む上でのポイントは以下の3点になる
1.旧規約の成立の経緯
2.(当時の)国際ルールと旧規約の対応関係
3.旧規約上で行われるゲームの名称
これらを順番に詳しく見ていこう 1.旧規約の成立の経緯
よく知られているように旧規約は1948年7月の呉対岩本の日本式囲碁の対局における手入れ問題に端を発し
日本式囲碁のルールの成文化の必要性に迫られて翌年10月に制定されたものである
戦後の状況下における1年という短い期間の「慎重審議」の産物であり
「徳川時代以来の慣習として認められてきたものを成文化した為、
理論面での明確性が必ずしも充分と云えない」(吉国)ものとなった
ちなみに棋院は「日本で初めての成文法」であると主張しているが、もちろんこれは捏造であり
民間人(当時は棋院も民間の法人)による成文ルールはそれ以前から公表されている
旧規約の前文においては
「内外の事情により囲碁規約の制定がまさに刻下の緊要事であること」
を制定理由に挙げている
ここで「内」というのは上で挙げた呉対岩本戦により生じた社会的な要請のことであり
「外」というのは
「今や囲碁が国際的に普及する段階に達しており、今後国際的囲碁競技にまで進展することが期待」
されている国際的な状況のことであるとされている この時点で普通の人なら頭が疑問符で一杯になるだろう
呉対岩本戦の問題は日本式囲碁だから生じたものであり
なぜ「囲碁規約」が問題になるのか?
実際に国際ルールに準拠した「囲碁規約」は島田らによって当時すでに成文化されており
国際ルールを用いていれば問題は生じ得なかった
社会的に求められていたのは日本式囲碁のルールの成文化であって「囲碁規約」は関係ない
そもそも旧規約は日本式囲碁の成文ルールであって「囲碁規約」ではない
「囲碁が国際的に普及する段階」って日本は普及された側でしょう?
「国際的囲碁競技」の環境整備にローカルな日本式囲碁も旧規約も関係ないでしょう? これらの疑問は、旧規約が「囲碁」という言葉を誤用しており
日本式囲碁のことを指していると理解すれば解消する
新規約では「日本ルール」「日本囲碁」「日本の囲碁」等の用語が見られるが
旧規約では一貫して「囲碁」を日本式囲碁に限定して用いている
「各方面の権威者」が公式文章で用法を誤るわけがないので
この誤用は明らかに意図的なものであり、その後の誤用の流布の大本になる
では、旧規約上で「囲碁」が日本式囲碁のことだとするなら
本来の囲碁や国際ルールは旧規約上ではどのように表現されているのか?
それらは旧規約では存在自体が抹消されている
囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
もちろんこれは歴史の捏造である
各国の伝統的な囲碁の存在を無視して抹消し、優れた日本式囲碁を「国際的に普及する」
「その実現によって国際親善と世界平和の増進に貢献する」
今から見ればカルトな帝国主義思想にしか見えないが当時の棋士達は本気だった
実際、戦前からそういう「普及」活動は行われていた
歴史捏造の裏には当時の思想や社会背景がある 素朴な疑問
「囲碁」は「碁」なのか?
石の数を数えるゲームに囲うの文字はついていたのか? >>835
書体は時代や地域によって様々なものがあるが、「碁」(とそれに該当する用語)は
「一、古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯の総称」
を意味する(囲碁、乱碁、格碁など)
それらの遊戯の一つである
「二、特にその中でも盤上の石の数を競う遊戯のこと」
が「囲碁」(とそれに該当する用語)になる
現在では「囲碁」しか残っていないので「碁」は「囲碁」と同義になっている もともと囲うという字に石の数を競うという意味があったの?
誤用かな?
あるいはその語ができたころにはすでに陣地を囲うゲームになっていたという可能性は? >>837
囲って石を取り去るから「囲碁」
「文字通り、棊子(碁石)を囲い・トリあう。地を囲うのではない」(白川)
数千年前(諸説あり)から現在まで囲碁は盤上の石の数を競うゲーム
日本に日本式囲碁ができたのは1000年くらい前(諸説あり)
大陸に現代ルールができたのはここ数十年
あまりにも無知すぎる質問は荒らしと同じになるぞ
それからいい加減にコテつけろよな
君が知恵遅れの子だというのはもうみんな分かっているから
コテつけて議論の邪魔さえしなければ他のスレでもみんな優しく接してくれるよ 目的が違うものは名前を変えるべきだという人もいる。
盤上の石の数を数えるのと石を囲って取り合うのは明らかに別の意味だけど
盤上の石の数を数えることと盤上の空き地の数を数えることの違いよりはずっと違う。 >>839
知恵遅れ君はいい加減にコテつけたらどうだ
「ゲームの違いというのはルールの違いなんだよ」
「細かい規則の違いなら分類分けしないこともあるが、ゲームの目的が違うくらい大きく違えば完全に別のゲームだよ」
「包含関係は逆は必ずしも真ならずだから別のゲームでもゲームの目的が違うとは限らないよ」
「囲碁とオセロはルールが違うから別のゲームだし、サッカーもラグビーもホッケーも別のゲームだよ」
という小学生レベルの説明が分からない
「囲碁は文字通り囲んで石を取り去るから囲碁なんだよ」
「囲碁というゲームもそれに対応する言葉も日本に伝来する前からあるんだよ」
「囲碁は古代から盤上の石の数を競うゲームなんだよ」
「大陸に地を争う現代ルールができたのはここ数十年の最近のことなんだよ」
という囲碁の基礎知識も知らないし説明されても基礎知識を教えられていることすら分からない
自らが無知であることへの反省も教えてくれた人への感謝もない
分からないことは仕方ないがコテをつければレスが整理できてスレが荒れない >>840
> 日本に伝来する前からある
あなたの使う文字は中国由来のものだがあなたの書いているのは中国語ではない
> 「ゲームの違いというのはルールの違いなんだよ」
つまり地を争うゲームは日本発のゲームということで問題ないのでは? >>841
「地を争うゲームは日本発のゲームということで問題」あるなんて誰が言っているんだ?
少なくともこのスレでは誰も言ってないぞ
>あなたの使う文字は中国由来のものだがあなたの書いているのは中国語ではない
だったら、大陸の碁は日本語では何て言うんだ?
大陸の碁を日本語で囲碁と書いている文献や言っている人々は棋院も棋士も学者もみんな間違っているのか? >842
> 囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
> もちろんこれは歴史の捏造である
> だったら、大陸の碁は日本語では何て言うんだ?
さあ?あなたならどう呼ぶ?
私は、石を数えるか地を数えるかは些末な違いであると思うし、どちらも囲碁と呼ぶ。
その意味で2行目の記述は間違いだと思うが、「囲碁」を「地を数えるゲーム」に置き換えれば部分的には正しい
日本人が日本語で書いた地を数えるゲームの説明とすればそれなりに筋は通る >>843
これだけコテつけろって言われているのにまだつけないのな
コテのつけ方が分からないのか?
名前欄に「知恵遅れ」って書くだけだぞ
知恵遅れ君には無理か
「数える」と「競う」は違うって散々注意されているのにまだ分かってないのな
数え方はどうやろうがルールには無関係
何を競っているかの目的が変わるとルールが大きく変わる
小学生でも分かっていることだが知恵遅れ君には無理か
その引用部分では石を競うゲームを囲碁、地を競うゲームを日本式囲碁と区別しているから
> (石を競う)囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
という以外には読めないんだが小学生の国語力もない知恵遅れ君には無理か
知恵遅れ君がどう思おうが社会で使われている言葉の定義は決まっているんだが
自分の考えで世界が変わると思っている知恵遅れ君には理解不能か
バカってすごいなぁ
こんなの相手にしていたらスレが荒れるわけだわ >844
> 本来の囲碁や国際ルールは旧規約上ではどのように表現されているのか?
>
> それらは旧規約では存在自体が抹消されている
> (石を競う)囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
石を競うゲームと地を競うゲームがあって、旧規約で前者の存在が抹消されていて、
それなのに旧規約で前者について言及されているの? >>844
人に言う前に自分がコテつけたら?
ずうっとスレに住み着いているようだけど
見たところきみの意見は突飛すぎて賛同は皆無、四面楚歌っぽいね >>845
存在が抹消されていて石を競うゲームについて本来あるべき言及がされていないから
「(石を競う)囲碁は日本発のゲーム」ということになり、歴史の捏造になるということが書いてある
小学生くらいの国語力があれば読めるんだが知恵遅れ君が読めないのは当然か
>>846
おれがつけてどうするw
知恵遅れで議論の邪魔になっているお前がつけないと意味ないだろww
俺が自分の意見を書いていないことすら分からないのはバカの極みだな
「1+1は2なんだよ」って説明しても「きみの意見は突飛すぎて賛同は皆無」っていうんだから頭痛くなる >俺が自分の意見を書いていないことすら分からないのはバカの極みだな
へ〜、ならいったい誰が君の意見に賛同してるの?
誰がルールの問題は歴史の捏造だとか言葉の誤用だって主張しているの?一人でもいいから紹介してくれよ >>848
俺は意見を書いていないと言っているのにww
お前面白いなw
何でそんなにコテつけるのが嫌なんだ?
理由を教えてくれよ >>849
なにすっとぽげてるんだ?
おまえの意見でないなら誰の意見なのかって聞いてるんだよ、まさか日本語わからないのか? >>850
知恵遅れ君が発狂したw
誰って言われても全部お前の妄想だとしか言いようがないw
いいからコテを嫌がる理由を教えてくれよ きみ、都合が悪くなるとすぐに「俺が言ってるわけじゃなあ〜い!」って言って他人のせいにして逃げるよね(笑)
じゃあ俺も同じことをいうけど、他の人の一般意見ならば、数えるのが石だろうと地だろうと同じ「碁」だというのが常識だぞ。
欧米でもarea、あるいはterritoryという言葉で説明されている。
もちろん俺個人の意見でそんなことできるわけはないので、これは世界中の人間の共通意見だということ。
日本の碁は言葉の誤用だとか歴史の捏造だなんて言ってるアホはおまえ以外ひとりもいない
これはどう考えてもおまえの個人的な意見だ
さあいいからコテを嫌がる理由を教えてくれよ >誰って言われても全部お前の妄想だとしか言いようがないw
なんだやっぱり全部お前の妄想だったんだなw >>852
>じゃあ俺も同じことをいうけど、他の人の一般意見ならば、数えるのが石だろうと地だろうと同じ「碁」だというのが常識だぞ。
すげーなw
数え方は関係ないって何度言われても貫き通すキチガイぶりww
数え方じゃなくてルールの話だと何万回言われても分からないんだろうなw
自分が知恵遅れでちゃんと読めずに妄想を書くから注意されているだけなのに
脳内では「都合が悪いから逃げている」「論破した」って思いこんでいたんだ
バカってすごいわ
しかも何で自分がコテをつけろって言われているのか分かってないんだな >数え方は関係ないって何度言われても貫き通すキチガイぶりww
>数え方じゃなくてルールの話だと何万回言われても分からないんだろうなw
もはやなにをいっているのか訳わからんwww
数え方がルールでなくてなんだというん
小学生レベルの言葉遊びをしているのは自分のくせして
スレが荒れるだの知恵遅れ君だのとよくもまあいえたもんだな
本物のバカは格が違う >>847
旧規約
> 概 念
> 第1条
> 囲碁は、(中略) 彼我の地を計算して勝敗を決定する。
これを読んでも石を競うゲームがどこで生れたかとんと 見当がつかぬ。 >>855
知恵遅れ君には分からないよなw
知恵遅れだもんな 「数える」「競う」「目的」
どれも表現を変えているだけで文脈的には同じ意味になるってことがわからないんだろうな
日本人じゃないならしょうがない >>858
「数える」と「競う」が「同じ意味になる」になるわけないだろw
また知恵遅れ君の迷言が増えたな バカには文脈が理解できないんだな、これは失礼した
では当たり前すぎて説明するのもバカらしいことだが、
「数えて」「競う」というわけだ
まさか数えなくても競えるなどとは言うまいな 知恵遅れ君の頭の中では日本ルールも現代中国ルールも伝統ルールも全部同じなんだろうな
数え方が違うくらいにしか思ってないから囲碁関係者が頭を悩ませているルール問題が認識できない
棋院がなぜ日本ルールに拘っているのかも理解できない
分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
どうしようもないなw 初心者を卒業した程度に打っているなら、数えて競うのが石だろうが地だろうが
碁のゲーム性(目的)は領土争いだということは理解できるはずなんだがエアプのようだな。
>>629のとおり基本的に石でも地でも論理的にほぼ同値。
完全にイコールでないとはいえ、「石」と「地」は細かな違いでしかなく、競っている戦略や技術は同じ。
そうでなければ中国ルールで動いている汎用性のないアルファ碁は日本ルールでは雑魚でなきゃおかしい >>861
全部同じ「囲碁」だろ
同じだからこそローカルルールのすり合わせをする
今風に考えれば、都合の悪いことは書かない、書いてないことは都合が悪いこと
石を競うゲームについて旧規約で書いていないのは、石を競う「囲碁」というゲームが外国に既にあったから
ということになりそうなものだが >>863
修正
同じだからこそローカルルールのすり合わせをする程度で対局ができる >>861
きみが中国ルールに拘っているんだろ
大陸の碁も17路盤だったり、事前置石だったり、コミ、切賃、スーパー劫と幾度も改変されているのに、それは「歴史の捏造」とはなぜか言わない。
特に切賃は目的が石か地かという問題に本質的にかかわるのに。
詰まるところ、「目的が違う」ばかり強調するのは、
中国ルールの改変だけを正当化しつつ日本の改変だけ否定したいがための都合の良い言い分、という証左である。
目的が同じでも同じゲームとは限らないのだから、目的だけでゲームの違いが決まるとは言えない。
「目的が違えば別のゲーム」という発想はきみが勝手に考えた分類方法で、普遍的とはいえず説得力に乏しい。 >>862
「細かな違いでしかなく」ww
ルール問題に関わっている囲碁関係者が見たら発狂する表現だなw
後半部分は知恵遅れ君には珍しく正しい
偉いぞ
>>629を書いたのは俺だが
>>863
「ローカルルールのすり合わせをする」ができれば誰も苦労しない
「囲碁」ではそれができないというのがルール問題だ
日本の囲碁が大陸由来だというのは旧規約制定当時から常識であり、現在では棋院も公式に認めている >>865
また知恵遅れ君の妄想が始まったw
一つでもいいから「ゲームの目的が違うのに同じゲーム」だという例をあげてくれないか? >ルール問題に関わっている囲碁関係者が見たら発狂する表現だなw
また妄想かよ。
なら「細かな違いだ」と言って発狂する囲碁関係者とやらを紹介してくれよww
ただし単に「細かい」というだけでは主観によって大きな幅があるわけだが、
ここでの「細かい」というのは、まったく別のゲームとして扱わなければならないほど大きな違いではないって意味だな。 >>867
コミがあるなら黒はコミを出して勝つのが目的になる。コミなし盤面で勝つのとでは目的も戦略も変わるわけだが?
個人戦一回きりの勝負と、番碁(セット制)や団体戦も、最終目的は異なる。
時間によっても、早碁(直感、素早い判断力)と遅碁(深さ、最善の追求)で目的は違うともいえる。
碁はアマにとっては遊びだが、プロにとっては稼業だ。
碁は芸術だという人もいれば手談だという人もいるし、戦乱の再現だという人もいる。もともとは占星術だった。
「目的」なんてものはゲームの局所的な側面に過ぎないし、また人それぞれ捉え方も違う曖昧なものでしかない。 >>868
国際囲碁連盟ルール委員会に言ってみれば
>>869
当然、囲碁以外の競技ゲームでということなんだが知恵遅れ君は知恵遅れだったな
選手の目的ではなくゲームの目的なんだが知恵遅れ君は知恵遅れだったな
難しいこと聞いた俺が悪かったわ そもそも「目的が違えば別のゲーム」なら、切賃のない現代中国ルールも
「碁」と呼ぶのはおかしいことになるのだが、そういう都合の悪いことは全部スルーか?
そして、ルール問題を歴史の捏造だのというのが自分の意見でないのならいったい誰の意見なんだと聞いても、
「知恵遅れ」だとか言ってはぐらかすだけ
>分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
>注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
>どうしようもないなw
ブーメランにも程があるぞ
>>813と、あと詭弁のガイドラインもググって熟読してこい 卓球は以前は21点制だったが、今は11点制で、かつセット数が増えた
よって21点先取から11点先取に目的は変わったわけだが、同じ卓球には変わりない
こんな例は無数にあるけどいちいち挙げなきゃわからないのか? >>872
分かった分かったw
そういうのは「目的は変わった」とは言わないんだが知恵遅れ君だからな
バカに触れちゃいけないっていうのがよく分かったわ >そういうのは「目的は変わった」とは言わない
それはおまえの都合の良い論理だ
それを言うんなら、碁でも競うのが石だろうと地だろうと、
論理的には領土争いだという目的なのは変わらない。 さて、こちらがしんせつに例を挙げてやってれば
「選手の目的ではなくゲームの目的」
「そういうのは目的が変わったとは言わない」
だのと、自分勝手な基準でケチを付けてあとはバカだ知恵遅れだとぎゃーぎゃー連呼するだけ(察し)である
じゃあ「ゲームの目的」というは、いったい何をもって判断するんだ?
野球の目的は?テニスの目的は?マラソンの目的は?
選手の目的ではない客観的な「ゲームの目的」とやらを説明してみろや >>875
「「ゲームの目的」というは、いったい何をもって判断するんだ?」ww
また知恵遅れ君の迷言が増えたな
卓球も野球も「得点を競う」スポーツに決まってるだろ
得点制のスポーツはみんなそうだ
芸術や技術に付随する競技は「技の優劣を競う」もの(文字通りの競技)だし
タイムトライアルは「到達時間を競う」ものだ
こんな小学生レベルのことも分からないから知恵遅れなんだよ
知恵遅れっていうのは揶揄じゃなくて事実だからな
もうこれ以上は相手にせんぞ
コテつけれるのならもう少し相手してあげていいがw 碁の地や石も得点の一種なのは変わらないぞww
ということは、地も石も目的は同じだし、碁も野球も目的は同じということになり、
もはや「目的」なんてものはゲームの違いを判断するにはまったく役にたたないってことが晴れて証明されたな
あ、お望み通りコテはつけてないからもう相手してくれなくていいよ > 成文ルールはそれ以前から公表されている
公表しただけで法になるなら国会はいらない
> 第1条
> 囲碁は、(中略) 彼我の地を計算して勝敗を決定する。
旧囲碁規約の中でこれ以外の意味でたんに「囲碁」という語を使えばそれは誤用
旧囲碁規約の中で、他に「○○の囲碁」という語も出てこないのでわざわざ「日本の」と
つける必要もない
もちろん「囲碁規約」という名称についても同様
社会的に求められたのは地を競うゲームのルールの成文化であって
定義からそれは旧囲碁規約そのもの
「囲碁が国際的に普及する段階」
定義からそれは地を競うゲームが国際的に普及する段階になったということ
「国際的囲碁競技」
定義からそれは世界規模で地を競うゲームが行われるということ
地を競うゲームと石を競うゲームがおんなじものだという以外に、どこまでいっても
> (石を競う)囲碁
の話になりようがない スレが荒れているので、改めて書こう
>>825の旧規約を読む上で>>831で3つのポイントをあげた
>1.旧規約の成立の経緯
に注目して読んだのが>>832-834である
旧規約では国際的な囲碁の歴史や国際ルールの存在が抹殺されており
結果的に囲碁の由来が捏造されることになった
また「囲碁」という歴史的な用語を故意に誤用して日本式囲碁に限定して用いている(と解釈せざるを得ない)
この旧規約の意図的な誤用は、その後の誤用の流布の源になっている
旧規約を無理に擁護しようとすれば
「囲碁」を日本式囲碁に限定しているのは言葉の定義の変更だから間違いではないと言えないことはないが
注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
旧規約は日本式囲碁を「国際的に普及する」のを目的にしており
これらの捏造や誤用もその目的のためだと推察される
その背景には当時の思想や社会状況がある >879
> 注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
> 「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
「日本語」で「地を競うゲーム」を何と呼ぶか決めたのは棋院でも規約でもない1000年の歴史 捏造だとか言ってる変な人はほっといて、真面目にルールの話。
中国ルール+同形再現禁止なら単純明快で厳密だという意見がスレ最初の方で多数あるが、
日本ルールの>>3の問題点もすべては同形再現に起因するものだ。
よって同形再現禁止にするならば日本ルール(7−2廃止&その他の調整)でも厳密性は同等だし、理解も容易い。 両負けの規定がおかしいと言っている人も誤解している。
これはあくまでも>>166のような未決着問題のためにある。
つまり、終局前に両者共に有効着手を逃すミスを犯し、
しかもそれがお互いに勝敗に直結する致命的なものだった場合は、対局の再開要請や死活の合意は成立しない。
そのようなケースで双方負けになるのはむしろ当然だろう。
「死活の合意を拒否する」というのは、
明らかに死んでいる石を活石だと言い張ることではない。 現状ほとんどの人は中国式計算法か日本式計算法かという軸で囲碁ルールを大別してると思うけど、
自分は大別するなら全局同形禁止か一手前同形禁止かという軸で分類したほうが適切だという気がしている。
全局同形禁止は全局死活と相性がいい。終局は合意(省略)で決まる。不合意なら実戦解決。その勝負形式に合う計算法が中国式。
一手前同形禁止は部分死活と相性がいい。終局は連続パス(機械的)で決まる。不合意なら判定方式。その勝負形式に合う計算法が日本式。
同形禁止の差は着手可能点の差だから、終局後の計算法よりもゲーム性への影響は大きいと考えられる。 同形再現禁止はルール問題の曖昧性を解消するのにもっとも有効な策だが、
同時にもっとも意見の分かれるところであろう。
言い換えれば、囲碁ルールを立案するにあたって最初のもっとも重要な岐路は、同形再現を禁止するか否かである。
全局同形禁止のデメリット
・着手の自由度が損なわれる。
チェスや将棋でも同形反復は禁止とはせず、数回の反復を確認した後に引き分け扱い。
無勝負に持ち込むのもテクニック。
あるいは、優勢側が同形反復回避で解決できるケースもあり、
そのような駆け引きも勝負としての面白さである。
・通常の劫ですら劫ダテを忘れて反則負けになる例があるのに、さらに禁じ手を増やしてゲームに集中できるか?
しかも、同形再現は次の着手にだけ注意を払えば済む問題ではなく、
数手先に必要に迫られる着手も同形再現とならないか気に掛けておかねばならないのである。
「反則負け」という結末は、対局者も観衆も基本望むものではないと思われるし、不名誉なイメージもある。
・同形再現の判断は難しい。
http://igo.main.jp/zenzen1.html
この解説の白14放り込みが黒9の盤面と同一になっていることに何人が気づくだろうか?
(つまり、上記リンク先の解説は間違っている)
立会人や審判が気づかなかったらどうするか?
「対局相手が気づいて指摘した場合のみ」などの案もあるが、
通常の劫における(傍から見れば明らかな)反則でもそれを適用するのかどうかや、
反則の指摘が勘違いだったらどうするのか?後から気づいて指摘しても有効か?
等も、なるべく万人が受け入れられる形で決定せねばならない。
・下記リンク先「常識が覆される図例」その他の解説はごもっとも。
すなわち、着手可能点がまったく残されていない場合には異常な死活が発生する。
(9路対局等では現実味はある)。
http://igo.main.jp/jp-rule-cn.html
・三劫や長生なら無勝負も可。という例外を中韓棋士も好んでいるようである。
同形反復が発生したら再勝負で仕切り直した方が対局者も気持ちを切り替えて後腐れがない。
・常に白黒ついてしまうよりも、無勝負もあった方が話題性がある。
例:信長の三劫の逸話。
呉清源「長生は100万局をしても見たことがない。もし発生すればめでたい」
ちなみに、リンク先記事は鄭銘コウ氏の論考のはずだが、同氏自身が強調しつつ、
その上自ら立証してしまっているように、プロでも同形再現はうっかりしやすいようである。 囲碁ルールを考察する上で計算法の立ち位置は最後。
順番としては、
全局同形禁止か、通常劫ルールか?
通常劫ルールなら、全局死活(如仏の判決支持)か、部分死活(劫尽くし不可も隅の曲がり四目死)か?
部分死活なら、性生論(劫材有利で手入れ不要)か、性死論(常に手入れ必要)か?
そして最後に決めるのが、純碁式か、中国式か、日本式か?
という得点の計算法だ。
なのに、囲碁ルールを語る者はみな計算法を中心にして分別するものだと思いこんでいる。
だから俯瞰的な論理構造が見えていない。本質を見誤る。木を見て森を見ずである。
<塚本氏の誤り>
一例を紹介すると、「着手は義務か権利か」という議論だ。
自分に言わせれば、着手は権利であって義務ではないのは明白だ。
そしてそれは、中国式か日本式かといった計算法の違いとは別次元の、もっと上位階層に位置する基本的な問題である。
であるからして、塚本氏の「着手は義務」だという考察は誤りだ。
同氏はまた、日本式の碁が省略であるといった旨も述べているが、であるならばそれこそ矛盾していることになる。
日本式が純碁式まで打つのを省略しているだけなのだとすれば、純碁式でも着手は義務だということになり、
池田氏の述べるとおりいずれは二眼生きの石に自爆手を打たざるを得ないことになる。
もう少し詳しく説明しよう。
着手が義務だとすれば、それは>>736のいうように、チェス風に言って"スティールメイト"をさせるゲームになる。
>>750を例にするなら、白はパス(義務の放棄)をすると負けだから自分の目に打つことになってさらにゲームは続く。
ただいずれ盤上は、どちらかの単一の目のみで埋め尽くされることになるだろう。
(もしくは、自殺手――自分は打てるが相手は打てないような、死石を取り上げる直前の状態のみになる)
そして最後には、どちらかが自分の意思とは無関係にパスせざるを得なくなる。
となればそれが負けである。そういうゲームになる。
だから同氏の、「パスと終局宣言は区別されるべきものだ」といった線引も、客観的に明確ではない。
二眼の目は着手禁止だというルールは聞いたことがないからだ。
いくら一方が「これはパスではなく終局宣言だ」と主張したところで、盤上に打てる着点が存在する限りは、
もう一方が「まだ終局ではない」と反論したら「着手は義務」のルールにしたがって
自分の目の中だろうと打たねばならないはずだ。
そしてそのようなゲームは、少なくとも我々が知っている「碁」ではない。
ちなみに同氏は双六にたとえて終局を考察しているが、
双六の決着方法(実戦的決着)と、碁の決着方法(得点で決着)では
根本的に異なっているため、まるで説明になっていない。
以上のことから明らかなごとく、「着手は義務か権利か」の議論は、
純碁式か日本式かという計算法の違い以前の、もっと遡った基本的な着手規則=棋法の
問題なのだということがわかるだろう。
日本式だろうと地数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
純碁式だろうと石数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
着手が義務だとすれば、日本式だろうと純碁式だろうと上記のようなゲームになってしまう。
ちなみに、塚本氏の劫にかんする手入れの考察もまったくチンプンカンプンである。
「ヨセ劫は手入れ不要」の理屈は、着手は義務ではなく権利であることを前提とした上での、
対局者自身の自由意思に基づいた着手選択による決着である。
一方、「一手劫は手入れ必要」の理屈は、同士の語る「両劫に仮生一」問題と同じく、
「部分死活」によって劫尽くしと見なすことによる後付け的解釈である。
だからこそ、如仏の判決や、呉清源の手入れ問題が、ルールを語る上で大きな意味を持つのである。 補足しておくけど、「本劫手入れ必要」言い換えれば「劫の目を得点としない」は、
現行規約においては部分死活論によって合理的根拠を与えているのは述べたとおりだが、
本来この問題は、死活論とは【まったくの別問題だ。】
なぜなら部分死活といってもその定義は他にもあり得るのであり、
たとえば、「自分方の着手により取られない石が活石」とするなら、劫の目は活石に囲まれた地になる。
さらに二段劫の目に至っては、現行規約においても
八条「駄目を有する活石はセキ石(地を数えない)」や、
十条「セキ石の死石は取り上げない」といった『セキルール』によって、
得点としないことの合理的根拠を与えているのであり、
もはや七条の部分死活は直接的には関係ない事が分かる。
ということはつまり、本因坊秀哉と久保松勝喜代の手入れ議論や、呉清源の手入れ事件も、
実のところは、死活を全局的に考えるとか、部分的に考えるかといった
「死活論」の話ではまったくないのである。
ではその本質は何かと言えば、単純に、劫の目を得点として数えるか否かという、
セキのルールと同じような得点法の問題だ。
したがって、石+地+手止まり代を得点とする方式と、地+ハマを得点とする方式は、
劫の目とセキの目を得点とするならば完全に同値である。
ところがそれは、石のみを得点とする純碁とは完全には一致しない。
中国式(切賃あり)であろうとも、劫の目やセキの目をすべて得点として数えてしまうことにより、
打ち切った局面にもかかわらず純碁と結果が変わる例がある。
○○●●○┬○●●
○▲○●○○○●×
○○○●○┼○●● (▲は白のハマ)黒★劫取りに、白パス、黒パスで終局。続けて白Bは超劫。
├○○●○○○●●
○○○●●●○●×
●●●b●○●●●
●a●●●○○●A
├●●○○┼○○●
●┴●○┴○○★B
純碁=黒1目勝ち(黒A白Bと譲る代わりに黒a,bに手入れしても結果は同じ)
中国ルール+切賃=黒5目勝ち
中国ルール=黒3目勝ち
日本囲碁規約=白1目勝ち(ただし上図のままで終局すると、ABおよび×は地でなく白2目勝ち)
ルールが変われば結果も変わるという良い例。
×○●●┯○●●×
○○○●┼○●○○
●●●●○○○○● 黒白共に×と相手石を取り上げる手は攻め合い負けとなるため打てない。
○○○○○●●●●
●●●●●●●●●
┠●●●●●●●●
●●○○○○○○○
┠●○○○○○○○
●●○○○┷○┷○
純碁=黒1目勝ち
中国ルール+切賃=持碁
日本囲碁規約=白1目勝ち
こちらもまた、中国ルール+切賃であっても純碁と結果が異なる。
というわけで、本因坊や呉清源ですら、問題の本質的な切り分けや分類ができずに混同していたのだという分析を提起しておく。
本劫手入れ必要か否か?それは、単なる得点法の問題なのである。 >>887
最後の図は黒が4子抜いて攻め合い勝ってるんじゃない? >>881-887
全て間違い
コウなんて些細な問題であって全くルール問題の本質とは関係ない
スレを最初から読み直せ >>879の本題の続き
2.(当時の)国際ルールと旧規約の対応関係
現在では棋院自身も認めているように囲碁は日本で誕生したものではなく
大陸から伝来した国際的なゲームである
国際競技のローカル規約を作る場合には国際ルールとの対応関係を明らかにして記す必要がある
例として>>827にチェスの場合を示しておいた
当時の国際ルールは伝統ルールであった(中国に現代ルールができる前なので)
伝統ルールは京都学派によって研究され成文ルール等の公表もすでに行われており
当時の棋士達には広く知られていた
それでは旧規約では国際ルールとの対応関係はどのように記されているのか?
旧規約では国際ルールの存在自体が抹消されているので対応関係は不明であり
「日本棋院の名とその権威とにおいて」天下り式に規約を宣言しているだけである
このようなローカル規約は正当性がないとされ公的に認められないのが普通である
勝手に変なルールを作られて「囲碁」という名前を使われると混乱するからだ
実際、棋院が旧規約を公表したことで大きな混乱が生じて現在のルール問題になる
国際ルールとの対応関係が不明であることが日本ルールの最大の問題点であり
この問題は新規約でも解決されていない 3.旧規約上で行われるゲームの名称
旧規約は日本式囲碁の慣習をまとめたものである
したがって旧規約上で行われるゲームは日本式囲碁ということになる
しかし日本式囲碁には公式の名称がない
昔の碁打ちは囲碁のつもりで誤解をして日本式囲碁を打っていたので
日本式囲碁も囲碁と呼んでいたがローカルには問題は生じなかった
だが国際的な状況では誤解を正して「囲碁」とは区別できる新たなゲーム名をつける必要がある
旧規約では旧規約上で行われるゲームの名称をどのように定めているのか?
旧規約では「囲碁」を日本式囲碁の意味で誤用しており
特に日本式囲碁を指す名称は定められていない
それ故に旧規約上で行われるゲームの名称も不明である
この問題は新規約でも解決されていない 改めてルール問題を整理しよう
俺の意見を知りたいという人が多いので俺の個人的な意見も書いておく
囲碁というのは伝統ルールのことであり
そこから改変して生じたのが現代ルールである
現代ルールを囲碁と呼ぶのは厳密には誤用であるが
個人的には伝統ルールとの混乱が生じない文脈であれば問題ないと考える
伝統ルールにも様々な種類があるがルールの根幹部分は歴史的に定まっており
細則が違うだけであるので国際的に統一競技にすることは容易である
現代ルールは数十年前にできた新しいルールであるので
国際的に普及はしているがまだ歴史的に骨格が定まっていない
また現代ルールは存在の必要性もないことから廃止したとしても問題は生じない
個人的には現代ルールは特に気にするようなものではないと考えている ルール問題の本質は
日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
他の競技であれば、そんな日本ルールは認められないということで無視して終わりだが
囲碁の場合には政治的に日本ルールを無視できないという点が問題になっている
建設的な解決策としては対応関係を明確にするしかない
具体的には以下の3つのどれかだろう
A.日本ルールを伝統ルールの一部とする
切り賃と交互着手義務を復活させる規約改正を行えばよい
ルールを旧来の伝統的な形に戻すだけであるので理論的には問題はない
棋院のメンツのみが問題になる
B.日本ルールを現代ルールの一部とする
交互着手義務を復活させる(もしくはパス代と手番コミを導入する)規約改正を行えばよい
交互着手義務なら旧来の形(の一種)に戻すだけ
ただし日本ルールは現代ルールの誕生前から存在しているので理論的にはおかしなことになる
棋院のメンツも問題になる
C.日本ルールを日本伝統の固有ルール(日本式囲碁という固有のゲーム)とする
歴史的にはこれが最も正しいあり方
「日本式囲碁」等の別の名前を付けて大陸の囲碁とは完全に区別する
国際大会やアマの大会は囲碁のルールで行い、国内の歴史的な大会は日本式囲碁で行うという住み分け
規約の改正も用語の一部を修正するだけでいい
個人的にはC案が一番いいと考えるが議論の余地が大きいところだろう >>892
> 注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
> 「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
「日本人が地を競うゲームの事を囲碁と呼んだ」ことについて誤解は全く無い
千年の歴史のある日本語の単語の定義を勝手に変えて使うのは通用しないのでは? >>890
今調べると囲碁の国際団体についてウィキペディアに
> 1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、
と書いてあるけど
その国際ルールとはどういう人たちが決めて
どのような人たちがどのような機会にどれくらい打っていたの? >>889
>コウなんて些細な問題
だってよw
知恵遅れ君の頭の中では日本ルールも現代中国ルールも伝統ルールも全部同じなんだろうな
劫の問題が些細な違いにしか思ってないから囲碁関係者が頭を悩ませているルール問題が認識できない
棋院がなぜ日本ルールに拘っているのかも理解できない
分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
どうしようもないなw そもそも「伝統的な国際ルール」なんて存在しないしww
囲碁の国際大会が始まったのなんてほんの半世紀程前の出来事だぞ
歴史ある伝統的な国際ルールなんてものがあるというのなら、
それが確認できる歴史的文献を示してくれ
単に「伝統」というだけなら国や地域の数だけ存在する
日本ルールだって立派に「伝統ルール」だ
まあシナ人の偏った頭の中には大陸の伝統しかないんだろうけど まあこの際、一億歩譲って日本の碁は独特な「日本式囲碁」だったと仮定して、
それでなんで日本式囲碁は国際大会をやっちゃならんのかもさっぱり意味不明
柔道は日本式武道だから国内限定だってかww
キミ相変わらず頭オカシイネ 定期的にこのスレ盛り上がるな
まあ突っ込みどころが多すぎるアホが常駐してるからしょうがないけど たしかに「コウなんて些細な問題」とのたまう御人が囲碁のルール問題を論じているのには、おれも驚いたわ >>161
これ本当に白先黒死か?
白先でも万年コウでしょ
八目中手ってなんだよ 棋力が低く死活の判断ができないまま終局した場合ってルールの問題と関係なくね?
そんなの碁会所でもしょっちゅうあるしたいてい高段者が裁断して双方納得だろう
『切り賃』 『純碁』とかの話も囲碁の歴史としてはそうだったんだみたいに関心はするけど現代のルールとは直接関係ない
また『中国ルール』『日本ルール』『韓国ルール』など現存する様々なルール統一に役立つとも思えない
そもそもルールを統一する必要あるか?
プロの対局なら日本式でも中国式でもルールの不備で終局後に問題が起こることはないだろう
昔、呉清源が俺は日本人じゃないから日本のルールに従う義務はないとごねて
手入れが必要なのに手入れしなかった例はあるよそりゃね、こんなのはただの嫌がらせみたいなもんだろう >>894
囲碁っていうのはもっと遥か昔から大陸にあってそれが日本に伝承されたものだ
棋院のページでも見て勉強してくれ
無知すぎる書き込みは荒らしにしかならんぞ
>>898
日本式囲碁を囲碁のローカルルールとせずに独立したルール(ゲーム)として取り扱う場合
日本式囲碁の国際大会をやるのは別に構わないが囲碁の国際大会とは区別する必要が出てくるという話だ
将棋の国際大会がチェスの国際大会と区別されているのと同じこと
>>899
全くその通り
バカが荒らすからまともな人が敬遠して議論が進まない
>>900
コウなんて現代中国ルールでも途中で変わっているし現代ルールでも伝統ルールでも日本式囲碁でもローカルルールごとに様々だ
そういうのは細則と言って地域ごと、大会ごとに自由に決めていい細かいルール項目に当たる
コミや持ち時間等も同じ
>>902
本人同意を優先するか審判判定か、機械判定かは本質ではないと俺も思う
歴史の話はルール問題の本質だ
>>893を読んでから意見を書いて欲しい
ルール統一もそこが一番の問題になっている >903
石を競うゲームが大陸で生まれて囲碁と呼ばれたことの話はしていない
地を競うゲームが日本で生まれて囲碁と呼ばれたことの話をしている
それが千年前から別のゲームとして並立していたにしろ
千年前から同じゲームとされていたにしろ >>903
囲碁の歴史と現代のルールを無理に関連付ける必要はない
『切り賃』だの『純碁』だのとかは囲碁の歴史(ルーツ)研究の世界だけでいってろての
ローカルルールを認めてるんなら中国ルール、日本ルールいろいろあっていいだろう?
ルールによって半目勝負の結果が違う場合があっても最初からどのルールでやるか決めてるんだから別に問題ない
千年以上前の遣唐使の時代からほぼ現代と同じだよ
遣唐使の中に囲碁の棋士がいて中国の棋士と打った棋譜が残ってるじゃん
鎮神頭とか妙手も玄々碁経で伝えられてるし
1300年前に中国棋士と日本棋士の対局がとくに問題もなく打たれていたってこと >>893
>ルール問題の本質は日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
伝統ルールって?
現代ルールって?
日本ルールがおかしいと言いたいことだけは分かるけど現存する他のルールはどうなの?
日本式囲碁(日本ルール)?とかわざわざいってるけど結局どうしたいの? 1.ルール問題の本質が歴史問題だと思いこんでるところからして全くずれてる。
自然法則は神が創造したルールだと宣って地動説を否定する中世のカルトのよう。
2.中国ルールでも現在は、石の生存権のみではなく、石と地を争うゲームに変化している。
そして切賃もなくなった。だったら、ゲーム目的も『細則』でいいでしょ。
3.極めつけは、コウやコミは自由に決めていい細則だという都合良すぎる持論。
じゃあ端から統一ルールなんて幻想なんだから、日本式だけ区別する必要もない。
おまえのレスから読み取れるのは、人参が嫌いピーマンが嫌いというレベルの、個人的な好き嫌いということだけ。 >>893
>ルール問題の本質は日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
>他の競技であれば、そんな日本ルールは認められないということで無視して終わりだが
>囲碁の場合には政治的に日本ルールを無視できないという点が問題になっている
いったい誰が何処でそんなことを問題にしているの?
>>892
>また現代ルールは存在の必要性もないことから廃止したとしても問題は生じない
>個人的には現代ルールは特に気にするようなものではないと考えている
今現在どんなルールで碁を打ってるんだろう
ていうかこの言い方だと中国ルールも韓国ルールも他のルールもそれぞれ独自の碁に似た別な競技(ゲーム)ということになっちゃう
相手するのが馬鹿々々しくなってきたw >>904
囲碁は日本で生まれたものではない
ここがポイントだな
囲碁ルールについておかしなことを言っている人々は囲碁が日本由来だと勘違いしている
囲碁を日本のゲームだと思っているからとんでもないことを考えてしまうんだな
>>905
切り賃も純碁も数十年前まで世界の標準ルールだったし現在でも囲碁の伝統ルールはそれしかない
歴史上の国際対局も伝統ルールに基づいて行われている
そのことは本因坊等の記録にも残っているし歴史的な棋譜や裁定も(現在の日本ルールではなく)純碁の結果と一致している
問題は日本ルールが自らをローカルルールとして認めていないことであり
そもそも日本ルールってどういう立ち位置なの? 囲碁と呼んでもいいものなの?ってところから何も決まっていないことなんだ
>>906>>908
少しはスレを読んでから書いてくれw
基本的な知識がなさ過ぎると荒らしにしかならない >「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
日本語にはこのゲームの名前として「囲碁」以上にふさわしいものはない 人々が合理的に動くものなら「地を競うゲーム」を囲碁と読んだことに合理的な理由があるだろう
その名前を変えようとしてもうまくいかない
人々が合理的に動くものでないなら「合理的に言えば「地を競うゲーム」は別の名前で
よぶべき」なんて言ってもなんの意味もない
その名前を変えようとしてもうまく行かない >>910>>911
もう完全にキチガイレベルだな
囲碁という言葉が日本語でない(外来語である)ことすら気付かないんだから
昔の日本人は自分達は囲碁をやっていると勘違いしていたんだ
世界の囲碁には様々なローカルルールがあるから日本ルールもローカルルールの一種だと考えていたんだろうな
それはそれで一つの考え方として賛否は別にして有りうる考え方だ
問題は現在の日本ルールの立ち位置が定まっていないことにある
伝統ルールのローカルルールの一つなのか?
現代ルールのローカルルールの一つなのか?
囲碁から派生した日本固有の独自ゲームなのか?
日本ルールの立ち位置はどうあるべきなのかについて建設的な議論をしようじゃないか その一貫した原典至上主義には感嘆するけど
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/098.html
>外来語は、日本語の一部です。
外国語が外来語になった時点で元の意味とは別れた独自の意味を持つのは
ふつうのことだ
カルタしかり、カルテしかり 囲碁という言葉が外来語だから日本語でないとは、それこそ完全にキチガイレベル 1.日本ルールが碁でないと言い張ってる馬鹿は、実際にそれぞれのルールで打ってみて比べたことがないド素人だろうとしか言いようがない
ド素人がググって聞き囓ったような中途半端な知識で偉そうに語るのは荒らしにしかならない
2.碁が中国由来であることは誰でも知ってる常識レベルの事実だし、棋院のページにも書かれている
みんな知らないかのように決めつけているのは、不都合な真実から目を背けたいがための捏造
3.不都合な真実というのは、ルール問題において歴史や伝統はあくまで二の次であり重要ではないという事実
「由来」に固執して伝統ルールに拘る考え方を「不合理」という
それは棋院が「地」に拘っているのとまったく同じ感情だ
でも人間は科学の進歩で物事を合理的に考えるようになった
合理的な考え方とは、歴史や伝統に縛られない客観的な見方をいう
ゲームのルールは基本、ゲーム性や利便性や実用性で考えるのが当然
4.日本の碁の権化である本因坊家が純碁式で裁定していただと?>>909
そりゃあ初耳だ、ぜひ実例を紹介してほしい
5.世界語となっている「Go」は明らかに日本由来の言葉
中国だったら発音は「Qi」のはず
つまり、キチガイの語る「(謎の)伝統ルール」とやらはネアンデルタール人と同じように一度途絶えたんだ
いま栄えているのは同時代に分化したホモサピエンスのように、「日本ルール」から発展したもの
6.「外来語は自国の言語ではない」などと言い出したら、
フランス語やスペイン語やイタリア語あたりのヨーロッパ圏の言語はみんな一緒くたになってしまうな ところで、石を囲めば取れると教わったけど、終局後は囲みきらない取り上げてしまうよね。
ルールに一貫性がないんやけど。なんで?いいの? 囲まれた石は死んで取り上げられる
敵地で味方に見殺しにされた兵士は生きるだけの土地がなければ殺されなくてもそのうち飢え死にする
終局したということは、双方がその死に合意したということだろ 合意すれば取り上げることが出来るなら、囲めば取れるルールなんて最初から必要ないじゃんか。 日本ルールについて誤解が多いが、死活確認は合意によって行われるわけではない
合意しなければ規約七条に則って判定するまでのこと だから死活確認ってなに?
囲めば取れるのルールに、何の確認が必要なの?ダメがあいているかどうかの「確認」なら分かるけど、そういう意味で使ってないよね 死活確認も勿論「囲ったら取れる」という基本ルールを大前提にしているよ
「囲ったら取れる」というルールを一歩飛躍させて、
「お互いがパスしてゲーム継続を放棄した後には、
どう足掻いても最終的に囲まれて取られる石も死石となる」
これも囲碁のルール そういうルール?
囲碁入門のいろはの「い」で覚えた、囲み切ってからから石を取る、終局処理では、それをしないってルール?
もし囲み切ると、自分の「地」が減ることになることはわかるけど、ルールの一貫性を無視して、なんで囲みきらないで(地を減らさないで)勝負の計算が合うんですか?
そこがわからない。 >>922
棋院のルールを引用
> 囲碁は、「地」の多少を争うことを目的として、競技開始から第九条の「対局の停止」までの間、両者の技芸を盤上で競うものであり、「終局」までの間着手することを「対局」という。
> 一方が着手を放棄し、次いで相手方も放棄した時点で、「対局の停止」となる。
終局したらもうそれ以降は囲碁の対局ではない
対局中のルールはおよばない
例えば交互に一手ずつ石を打たない あるいは逆に、対局中に終局後のルールは及ばない
> ハマをもって相手方の地を埋め、双方の地の目数を比較して、その多い方を勝ちとする。
対局中に、『ルールは一貫しているべきだから今地の多い俺の勝ちだ」
なんて言っても誰も聞かない
囲碁は対局後に勝敗が決定するゲーム
対局後に勝利することを目指して打つゲーム 疑問と答えが全くかみ合っていない。
こういう疑問は碁を覚えていくつれ消滅していくんだろうね
だからこそかみ合っていないんだろう
ハマを埋め戻さない中国ルールなら起こらない疑問でもあるけどね >>922
なにをもって「ルールに一貫性がない」なのか理解できないのだけど
(たとえばサッカーでキーパーが手を使うのはオカシイ!みたいな?)
まあ一人でそう考えるだけなら憲法で自由は保障されている
とはいえ、終局後も囲み切らないと石を取れないルールで碁を打ってる人はどこにもいない
なぜなら、捨て石になるわけでもなくただ取られるだけの石を敵陣に打ち込んで
それが有効手になってしまうようなゲームは大方の人間にとってくだらないだろうからな
あと「計算が合う」っていうのも、いったいなにと比較して「合う」なのかな? >>926
上の質問の焦点は、囲みきらなくても終局後に死石を除去してよいかどうかであって
ハマを埋めるかどうかなんてそれこそ答えが噛み合ってないのだが。
中国ルールだろうと合意による死石の除去は当たり前にやってる そして、合意できなければ、中国ルールならそのまま実戦解決すればいいが、
日本ルールであっても、終局盤面を棋譜なりカメラなり別の盤なりに保存しといて
待ったなしの死活決着対局でもやれば解決する問題
なぜだが日本ルールでは高段者を呼んでこなきゃわからないなどと思われがちだが
そんなものが本当に必要なのか?
つまり、中国ルールの実戦解決の利点というのは、
終局盤面を保存する手間が省けるという程度でしかない
しかしスポーツなどでカメラ判定が意図も容易く行われている現代において
それはたいした利点ではないな 質問です
中国ルールでは終局後一方の石と地を数えて180.5から引くといってますが
セキがある場合180.5を適用できないような気がするんですが違いますか? どう考えて適用できないと思ったのかな?中国ルールでは
1.セキの地(同色の石に囲まれた空点)も数える
2.終局後の盤上に存在するのは、黒白の石と地、そしてセキのダメで全てであり、その合計は361で不変
3.セキのダメは折半する(つまり、計算の際に0.5として数える)
…以上により、180.5は常に変わらない
セキのダメを「黒白ゼロ」ではなくて敢えて0.5として数えることで、
180.5という数字は変わらないわけだ >>931
レスどうもです
え〜と通常のセキだと黒白どちらも打てないダメが二つ残る
その二つのダメは黒白どちらにも属さないから黒白の地と石の合計が361-2で359になるのではないかと >>931
セキのダメを折半するって、そうなの?
セキのダメを数えてるんだそれは知らなかった
932はなかったことに 囲碁クエストの中国ルール、たまにダメをつめずにパスする輩がいて、
そういう時は自分の地にもどんどん石を置いて2眼のみにしてやる
こっちの地は2目しかないと相手は思っているだろうが、結果はこっちの大勝
あはは >>913
つまり囲碁は外国の言葉であったが日本に輸入されて意味が変わって元々の囲碁とは別のものを表すようになったと主張したいわけね
言い換えると日本語の「囲碁」は他の国の囲碁とは別の意味であって別のゲームを表すという主張になる
だったらまずはそのことを文献で証明しないと
棋院や囲碁関係者でそういう解釈をしている人は誰もいない
大体「囲碁」が元々の囲碁と意味が違うのなら元々の囲碁を表す言葉が別に存在しているはずだ
(例えばカルタの場合はトランプやカードゲーム等)
全く根拠のない独自説(非常識)を書かれても困る
それから念のため「囲碁という言葉が日本語でない」というのは日本発祥の日本語ではないという意味だからな
国語力があれば文脈で分かると思うが
あとカルテ等の和製外国語は日本発祥の日本語であって外来語ではない
>>915
1と2は荒らし的に書いた煽りということでいいね
3の「ルール問題において歴史や伝統はあくまで二の次であり重要ではない」という意見は私的な意見として聞いておくが
棋院を含めて世界中の囲碁関係者は囲碁の歴史や伝統を大切にしているからその意見は相手にされないだろう
俺もこれ以上は相手にするつもりはない
あと「重要ではない」という意見だからと言って歴史を捏造をしていいということにはならないからな
「ネアンデルタール人と同じように一度途絶えたんだ」とか書いていて恥ずかしくならないのか?
4と5は無知という他はない
6は「外来語は自国の言語ではない」等とは誰も言っていない藁人形 >>916
伝統ルールや現代ルールでは両対局者の合意の下で終盤を省略しているだけ
省略せずに最後まで打ち切ればこうなるだろうという局面(目数)を両対局者が合意して勝敗を決める
合意できなければ実戦決着
日本ルールでは両者の合意ではなく基本的には審判が規約に基づいて判定する
この時の個別の判定の是非は別の問題だとして
審判が判定すること自体は特に問題になるようなことではない
伝統ルールや現代ルールでも審判判定を採用することはできる 結局これについては誰も意見を書けないのか?
情けないな
>問題は現在の日本ルールの立ち位置が定まっていないことにある
>伝統ルールのローカルルールの一つなのか?
>現代ルールのローカルルールの一つなのか?
>囲碁から派生した日本固有の独自ゲームなのか?
>日本ルールの立ち位置はどうあるべきなのかについて建設的な議論をしようじゃないか 日本人なら祖国の日本ルールを国際ルールとして普及させようと考えるのは当然
そこに理由など必要ない おまえ自身が答えを書いてるんだけど
>世界中の囲碁関係者は囲碁の歴史や伝統を大切にしている
だったら棋院が日本ルールを大切にするのは当然
それを非難するのはおまえ自身が矛盾してるんだが?
あと、ルールが合理的に進化することは捏造とは言わないんで、いい加減誤用はやめたまえ
棋院はちゃんと、囲碁は中国で生まれたゲームだという歴史をサイトに載せている
https://www.nihonkiin.or.jp/teach/history/ まーたバカのひとつ覚えで【囲碁関係者(妄想)】のおでましか
現代ルールが伝統ルールから直接進化したものでないことは
まさしく囲碁関係者であるメイエンの
http://www.go-en.com/golax/jungo/ohmei.html
の記事等も参考資料にして書いてるわけだが、
となると捏造しているのは囲碁関係者なんだな
さらに、日本の碁で受け継がれてきたセキを数えない習慣は
あんたのいう伝統ルールとは明らかに反しているはずなんだけど
本因坊家はセキを数えていたんだ?
無知というのなら
「だったらまずはそのことを文献で証明しないと 」
「棋院や囲碁関係者でそういう解釈をしている人は誰もいない」
何から何まで適当に思いついただけのデタラメを
「書いていて恥ずかしくならないのか?」 >>935
「地を競うゲームは千年くらい前に日本で生まれた、石を競うゲームとは別のゲーム」というのはあなたの主張でしょう
あなたはその地を競うゲームは日本では歴史的に何と呼んでいたと考えていますか?
という話ですが。
私の「そのゲームは千年間囲碁と呼ばれた」という主張は気違い呼ばわりされるほどのものなのですか?
私の主張は、地を競うゲームと石を競うゲームは同じゲーム
千年間日本人はそれを同じものと考えて同じ名前で呼んだ
です。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。