信長の野望で過大、過小評価されている武将スレ76
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>>58
昔は武将の総数や出せる数に上限があって
かつ大名勢力の細分化やシナリオ範囲のバランスの問題あってリストラされてたからね
近年の三國志では懐かしのリストラ組が結構復活してる傾向あるけど、信長はそういう流れが弱いね https://i.imgur.com/zdiBKdm.jpeg
↓
https://i.imgur.com/2Gi4D7B.jpeg
https://i.imgur.com/pYlqRmq.jpeg
義元は天道で麻呂グラにしたら静岡のどっかの団体が抗議
天道PKで差し替え
能力も天道→創造で大幅上昇
今川義元
天道 85 70 82 89
創造 93 67 87 98
新生 94 85 88 94 諱が解らないから官途名で出てきていた人昔いなかったっけ?松本氏輔だったような。 天道の三木市地域タイアップ武将から登場した
久米五郎もちゃんとした名前ないの?って思う
それこそ前スレの別所吉親出した方が良かったのでは? 試しに新生の群雄で各武家武将20人固定シャッフルとかすると
大半の武家が50前後だらけで70超えはちょびちょび
80超えてたら神みたいになって良かったわ >>55
そう言う問題じゃないでしょ
それを言うなら信長が勢力を張ってきてない時代なんて信長基準にできないじゃん 大内は通しで見れば戦争強いと思うけど、このゲームの期間で言ったらそうでも無い印象でも仕方ない >>62
知略と政務はいいとしてもやはり統率と武勇が過大やな
本人下げて家臣連中をなんとかしたほうがいい
その点は明智勢と似ている 義元は大友宗麟が統率77武勇69だからそれくらいかな
宗麟の方が拡張してるし、総大将も何回かやってるから大甘査定だが
宗麟は龍造寺隆信との直接対決では2回負けてるが
これはむしろ過小な龍造寺隆信のプラス査定で
宗麟がマイナスになるわけじゃない 雪斎は別格だけど、普通にやったら朝比奈泰朝と岡部元信以外は三河武士ばっかになるからな今川プレイ。 大友は吉岡長増が毛利を九州北部から追い払ってるのに
なんであんな能力低いのか謎だわ
35 43 77 55 底力 能吏 破策
↓
85 63 92 75 撹乱 策謀 暗躍 破策
相手は吉川元春と小早川隆景なんだから、これくらいくれよ
代わりに高橋紹運下げていいから >>72
プレイやーがやると織田速攻で滅ぼせるから
家康改め元康や酒井などの松平がいっぱいいて普通に強いからな
織田も滅ぼせば織田家臣団手に入るし >>71
龍造寺隆信が大友宗麟に局地的に勝ったことはあっても直接的に勝ったことはないから宗麟と比較して隆信の評価が上がることはないよ 今確認したら
駿河が15万石で3城
遠江が25万石で4城
三河が30万石で4城もあるのか
計11城
石高換算でも他国より城の数が多い
これで三国同盟してるからそりゃ今川強いわ 近江「80万石で4城です」
常陸「54万石で3城です」 >>79
土佐は24万石計算なのかな?
安芸、本山、長宗我部、一条出さないといけないもん
大志だと7城もあった >>73
吉岡長増は過小度合いで言ったら最大クラスだよな
統率35、政治55はやばすぎ >>80
言うて観音寺は二条御所とならんで最強城筆頭候補でしょ 直接対決で勝ったわけちゃうから統率は60くらいでいい
知略政治は80後半あってもいいが >>84
直接対決じゃないって言っても実質的に宗麟から大友軍の総大将として軍の差配を任されたんだから統率は80あっても不自然じゃないよ
知略も両川どころか元就を手玉にとって実質的に謀略勝ちして九州から完全に撤退させたんだから凄い、その上龍造寺隆信を実質的に屈伏させたんだから95は硬い
政治は毛利包囲網の功績から80はあって良い。 追加で大友三家老の吉岡長増だけじゃなくて大友が関わった合戦じゃ殆ど活躍した吉弘鑑理や、外交官として九州でトップクラスに優れつつ合戦でも主戦力として活躍した臼杵鑑速の能力の大幅な見直しも必要だと思う
大友の家臣は誰かを上げたら他の誰かを下げる必要はあるかって言われたらないなぁ、あんな有数の外圧が激しい土地を治めようと思ったらチートみたいな人材が複数人いないと治まらんだろ 防衛の場合は地元補正があったと考えて多少低めでいいんじゃない? 大友宗麟は対毛利戦線の一方面として龍造寺を攻めたけど屈服させられず、力を削ぐこともできず和睦を許した
龍造寺隆信は大友宗麟に形ばかりの降伏は示したが二年後には大友に反して領土拡大を続け肥前統一を果たした
攻められた小勢力側が攻め手の目的を果たさせず、失地もなく切り抜けたのは勝利と呼んで差し支えないよね >>89
それは龍造寺側に寄ってる偏った見方でしょ
大局的に見て佐嘉城を包囲された上に人質まで出して降伏してるんだから、この時点で龍造寺がどうなろうが大友的にはあの時点では勝利条件の大本命を満たした訳だから大友の勝利だよ
今山の戦いもそもそも大友親貞が存在しないから架空だし 立花一派が過大すぎるだろ吉岡長増らに分けてちょうどいい そう言えば直近の龍造寺研究会では龍造寺氏は五州二島の太守と言われるほどの支配性はなかったんじゃないかと疑問を呈されてるね つか佐賀城包囲網は武威のデモンストレーションだよな
大友宗麟「隆信君、コバエみたいに目障りなことしてるけど、おれが動けば肥前の皆はおれに付くからw」
だから隆信がいくら逆らっても、肥前守護の大友宗麟にとっては「またかい」くらいの反応しかなかったと思う
「六ヶ国之凶徒」の件がなければ、大友の支配領域で火遊びしてるやんちゃ小僧くらいの存在でしかなかった 秋月筑紫宗像原田らみんな龍造寺同様の勢力保ったままの講和してる。その一環でしかないあんなもんで高評価したら北九州名将だらけになる。
つか秋月らのほうがもっとゴリゴリやってたんだから龍造寺は一番外れのどうでもいい地方で有馬あたり相手に勢力拡大しただけの鳥なき島の蝙蝠ちゅう評価になるな対大友戦をメインに据えるなら だからこそ大友諸将は対応に苦労してたんだろう、苦労しながらもよく反乱を抑えたって意味では名将だらけは間違ってないよ 力攻め
国衆への調略、懐柔策
譜代家臣と反乱分子の身内の女性を婚姻させて人質代わりにする
これらを大友がほとんど行わなかったのは、それほど脅威ある存在だと認識されてなかったからだよ
反乱が起きたらまた叩けばいいくらいの認識 >>90
降伏した龍造寺が三養基の方に兵を出したり、西肥前へ版図を広げるのを止められない大友が勝ったって言うのは、それこそ大友寄りの見方をしすぎなんじゃあないかな?
本当に大友が龍造寺を下し龍造寺が幕下に下ってるのなら、龍造寺の軍事活動を大友が制止できるはずだもの
でも、それをできてないのなら大友の肥前支配は名ばかりだし、龍造寺支配もできてないのなら形だけの勝利で実を伴わないものだろう
ついでに今山の戦いについて大友親貞は架空の人物だとしても、その翌日に龍造寺が多久を攻めて梶峰を小田鎮光から奪う余裕が生まれていることを考えると、
少なくとも何らかの戦いがあって龍造寺がその局地戦で勝利を収めたのは確かなんじゃないかな
大友宗麟自身も「兵馬のことだから珍しいことではない」と述べる書状があったはずだしね 風雲録の頃にシブサワが「九州の資料は盛り過ぎてて一万を500で倒すとかゴロゴロしているけど信憑性低くてアテにならなかった」とか言ってたな 考えたら元祖多々良浜の戦いの時点で300の足利尊氏直義が
3万の菊池武敏ボコってるしそういう土地なんかもしれん >>94
>>96
強い弱い以前になんか大友ってやり方が甘くね?
譜代にも外様にもやたらと謀反されてるし
甘いから求心力がなかったのか
求心力がないから甘くせざるを得なかったのか 龍造寺が少弐から大内に寝返ったのが北九州のバランス変えちゃうぐらいの影響はあったわけだよな 本来は大内が圧倒的に大友より強いのに
ゲーム時には武将の能力差がかなりあるせいでガチンコ勝負なかなか厳しい >>102
杉興連が何度も龍造寺家兼にボコられたから奥の手の陶興房が出て来て、興房までボコられた(田手畷の戦い)
義隆が太宰大弐任官してから少弐討伐の綸旨得て当主出陣→少弐派ガタガタで家兼も降伏という流れだから
幕府と朝廷動かせる大内介様のお力スゲーな話なんだよなそれも >>96
大内と大友の違いはまさにこの辺にあると思っていて、
大内は九州の国衆相手にも外交相手として一定の敬意を払っていて、官位とかの利益もちゃんと宛うんだけど
大友は身内になったら餌を与えない系の主人で、なんならちょっと上のレスみたいな態度をマジでとって威圧するだけなんだよね
だから反乱起こされまくるというのはあると思う 大友家って信長誕生のちょっと前に賀来の騒動みたいな
家中の不穏な動きとかイザコザちょくちょくあって大友家当主も統制に苦心してる
相模国から引き連れてきた系の家臣と豊後大神系の暗闘みたいなのずっとやってる
来週のNHKで大友家特集か。新しい切り口の大友宗麟像の解説期待したいけど >>97
少なくとも龍造寺の西肥前の拡大は大友にはとってはどうでもいい事だし、龍造寺が少なくとも大友にとって脅威になり得たのは耳川の戦い以後の話だろ
今山の戦いはほぼ架空だよ、局地戦に勝ったところで大友軍にはなんの被害与えてないしな、むしろ龍造寺側が武家として面目を保つために局地戦に勝った記録を残したんだろ 大友氏の加判衆の中で他を圧倒する連署数を誇る山下長就・鑑心父子って情報がほとんどないのね
大友氏から枝分かれした庶家の加判衆より上位に置く扱いまでされてた事もあった大物みたいだが
豊後大神氏の流れを汲んだ人物で菊池義武の老中として肥後に派遣されてたって位しか分からん…ノブヤボ登場無理かな… 蒼天PKだと鬼吉川こと吉川経基が最強クラスだったな。 >>105
>>101
なんかどっかの論文で書いてあったけど大友は加判衆を発展させて充実することで、上手く国衆から人材をローテーションして北九州を統治してたって言うから別に甘いわけでも下手でも無いんだと思う。
勿論、裏切ったりしたら滅ぼしたりしてることもあるけど外圧の激しい北九州でそんな事してたら割にあわないんだろうな >>73
吉岡は全シナリオ家老スタートなので年功加俸優による忠誠アップ+5がすぐ使えるのが魅力かな
軍師心得もちキャラでもあるけど角隈が上位互換すぎて出番ない
妙林と組ませると身内補正で数値底上げはできるけども、高スペックがひしめく九州勢の中では埋没しがち 一言で譜代家臣といっても大友は歴史が長いから派閥争いがあるんだろうなー
庶家=同紋(大友が豊後に来る前からの家臣)
譜代国衆=他紋
ここまでが加判衆になれる家柄
他に外様国衆
こんな感じ? >>107
大友って西相模の波多野党の大友だろ
ボスの波多野より出世しとるやん
初代は頼朝の”お気に”だったそうだが
北条のとこの松田なんか波多野の嫡流だよなあれ >>108
これらのことは間違いなく事実だよ
・大友が6月頃から西肥前衆を動員しようとしててそれが頓挫したこと
・大友宗麟が小城表で龍造寺に敗戦して打撃を受けたと認識していること
・その後龍造寺が多久を攻めて長信が梶峰を奪い取ったこと、攻められてるはずの龍造寺が大友方の城攻めを行えるほどの軍事的余裕が生まれてること
「大友八郎親貞を討ち取った今山の戦い」が架空でも、龍造寺方が宗麟が特筆するほどの勝利を得た局地戦があったのは間違いない
これを架空だと呼ぶのは大友贔屓が過ぎると思うぜ まあ大友贔屓の人がそう思うほど、神埼郡より西の肥前が大友にとってどうでもいいってことなら
大友の肥前守護も名前だけのものになるし、大友の六州守護も五州太守並みに胡乱なものかも知れないな >>116
大友宗麟はとっちゃそりゃあそれぐらいのことか、程度でしょ
その程度の事を鬼の首を取ったかのようにペチャクチャまくし立ててどうしたの? >>116
実際龍造寺隆信の五州太守なんてかなり怪しいってのが最近の見解なんだから大友なんて言うまでもなく怪しいだろ
別に何でも良いけど龍造寺オタめんどく過ぎ、流れを遮るなよ 方分による取次はしてたけど、地域国衆の自力救済を大友が放置せざるを得なかったのなら、
大友の大名権力としての支配力は低いと見ていいだろうし、大友の武将の能力値を加味する背景になる大友家自体の強さにも関わる話なんじゃね >>119
じゃあなんで佐賀城を包囲したとき、大友は力攻めをしなかったと思う? そもそも大友氏の領国支配は方分と検使を設置した東国大名達のソレとは全く異なる手段なんだから、それだけ見て能力を論じるなんて愚かだろうに 大友は大身国衆を評定衆の一種である加判衆に加え政権に参加させることで譜代重臣と同列に置き家臣化を進めて
ゆるい戦国領主連合から中央集権が一歩進んだ宿老合議体制に移行させたのが宗麟時代。
東国だとたとえば武田信虎が穴山武田や小山田にやったことをやっとこさやり終えたところでなんで
本格的な国外領土切り取りはまだこれからという状態だから同時代東国と比べぬるくなるのはまぁしょうがない
地域性の問題でもあるので数値を大幅に差っ引くような話しではないと思うが、留意は必要と思う。
ただ大友は国内は固まったよしいざ最初の本格的な対外侵攻やと日向攻めたら耳川合戦というのがなんともまぁあれだけど… >>120
田手口から攻め寄せたり、筑後勢を河川側から攻めさせたり、西肥前勢を動員しようとしたりして攻め手は講じてるし
攻められるに攻められなくって膠着したんじゃない? >>123
興房が家兼に負けたのは少弐が降伏する降伏の直前やね
もともと別動隊を作って龍造寺攻めたけど
結局被害デカくなるの嫌って撤退して懐柔策に変えただけぽい
なので本体は無傷だし龍造寺家兼に負けたと書かれつつ3ヶ月後には少弐滅亡という結果に 龍造寺オタ君は大した戦いでもない今山の戦いや同盟相手まで配下風に言っただけの五州二島の太守みたいなたいして実体のない話で盛ろうとせず
逆風ありの中で一国人から肥前の旗頭で肥後にまで勢力を伸ばした成り上がり面から正当に評価してやればもうすこし話聞いてもらえるんじゃないかなと思っていつも見てる >>115
長信の功績あるじゃん
今統率47だけど50ちょうどにしてもいいかい? 個人的にはどっちの言い分も分かるかな
これを荒れてることにするとか外野が変に突いて感情的にさせるとかしないで欲しい >>127
「今山の戦い」だけを取り上げてどうこう言うつもりはないけど
少なくとも孤立無援の勢力が、数国に跨がる大勢力の構成を受けて失地もなく切り抜けた佐嘉包囲網は実態のある功績でいいと思うぜ
五州二島の太守に関しては実態のない誇大宣伝だと俺も思うけど、筑後に関して途上とは言え国衆の配下化や直轄かを進めているのは頑張ってるよねー 立花道雪
高橋紹運
立花宗茂
ついでに誾千代
全員過大です 紹運は戦国武将列伝など読んでも実戦闘は一日で決着したみたいだし
岩屋城を元に全国屈指の猛将の様な評価はやっぱり過大だよね 過大一派なのに高橋統増だけ適正なのいつ見ても笑う。西の真田信綱やな フロイスの今山の戦いの認識(大友編からの内容)
・今や五ヵ国に君臨し繁栄の極みにあった豊後領主(大友義鎮)が、八万近い大軍をもって竜造寺を包囲した
・竜造寺は戦闘において勇敢な武将として姿を見せたのみならず、豊後勢が目的を達し得ぬと見て退却した後は、筑後の国を彼らから没収した上、すでに肥前国をも掌中に収めた
当時の人らの認識だと長期に渡った毛利大友戦争がそのまま龍造寺大友戦争にスライドした感じだったのでは >>135
この話がどれくらい本当なのか分からんからなんとも言えんな
まず8万動員したのが嘘くさい
かりに半分の4万だとしても城一つ落とせないのはさすがに大友勢が不甲斐なさすぎる
そもそも城を落とすつもりなかったんじゃないかと穿ってしまうわ >>131
少なくとも筑後・肥後が龍造寺に平定されたと言えるのかどうかっていうのは最新の研究で疑問を呈されてる事だしそこら辺が研究が進んでハッキリしないことには評価はし辛いし気がする >>137
自分もそのとおりだと思う、今山の戦いは少なくとも対毛利戦の一局面に過ぎないって研究者も言ってるからね 台頭すると周りが敵になるので辛いよな
戦なり外交なりでねじ伏せられる大名が地方の覇者になるんだが >>140
いざ勢力がでかくなってくると同盟相手でさえ邪魔してくるからな
対等だった同盟相手がでかくなりすぎるのも脅威なわけだ
まして同盟結んでない他勢力ならなおのこと >>136
真田信綱 58 73 69 44 → 73 73 64 44
真田昌輝 78 72 86 65 → 68 72 66 45
真田信尹 71 69 71 83 → 61 69 61 73
真田昌幸の兄弟こんなもんなんにしてる
しかし創造PK追加武将によくあることとはいえ昌輝も信尹も強すぎて草、昌輝に至っては戦法も混乱だし 昌輝は偵察任務を上手くこなして信玄に我が両目の如しと誉められた逸話だけで高能力になってるな
曽根昌世も同じような逸話あったような 常田隆永と鎌原幸定…誰からも話題にされない影の薄い真田一族
過大か過少かさえも分からないし居ても居なくてもさして問題ない
この2人が注目されないと羽尾道雲とか斎藤憲広なんかの西上野国衆にもスポットが当たらない
戦場での連携がスムーズになる伝令役を連想させる「百足衆」みたいな特性でもあれば昌輝にも特徴出せるのにな のぶやぼだと百足衆は伝令部隊なの?工作部隊なの?
天道だと土竜攻めできるから工作部隊っぽい解釈だけど 武田家の工兵って金山衆とか金堀衆、黒鍬衆とかその辺ちゃうの
天道の百足衆はネーミングがそれっぽいから採用されたとか?
まあ金山衆とか金堀衆って武田家の専売特許ではなくて
戦場における史料上の初出は今川氏親が遣わしたらしいけど 両眼のごとくなる者の逸話は甲陽軍鑑第37品にある
北条との戦いを前に信玄が地形の偵察に出したのが曽根内匠と真田喜兵衛 黒田長政や真田信之だろうなぁ…
最終的に国衆から大大名にのし上がった事を考えると、間違いなく超絶優秀 >>153
その辺は親より低評価なのが不思議で仕方がない
順応力でも全然優れていたり統率も大規模になった家中を率いてこなしているのに そりゃ親やケツモチなどの良環境があればそうもなるわ。
有能ではあるが超絶ってするには足りない。
超絶ってするなら1から旗揚げして一地方制覇するぐらいにして。 ならもっと下から這い上がった
堀秀治や溝口秀勝も上げてやれ 結局は知名度よ
尾張三河の土豪、尾張美濃の庶民から成り上がったやつは多いが無視される >>132
九州でそのメンバーがゴミになるとバランス取りで島津も崩れるんでダメです 天下勢力のなかで大名に抜擢されたのをのし上がるというのもなんだかね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています