1571年に良兼が没して一般に兼亮が家督を継いだとされるけど実は不明瞭な点が多い。
島津家の記録には良兼の次代は兼道(兼護)としている。兼亮と兼護は別名や恐らく誤記の類がいくつかあって互いに同じ別名を名乗ってるから混同されてる可能性がある。
島津家の記録では兼道(兼護)は三男と書かれてるけど本当は七男。長男良兼から順に兼長、兼樹、兼定、兼亮、兼則、兼護。
兼樹と兼亮は共に肝付家から追放あるいは出奔逐電してる。

1572年2月、廻・市成の境に一門の肝付越前守兼純らを遣わしたが島津軍に敗北し兼純ら諸将討死。兼亮は出陣してない。
1573年1月6日、庄内都之城の北郷右衛門尉時久軍と、肝付三河入道竹友を大将とした肝付軍が現・曽於市住吉山近辺で合戦するが敗北し兼亮の兄・修理亮兼定含む竹友ら諸将多く討死。兼亮は出陣してない。
1573年3月中、肝付方だった禰寝右近大夫重長が島津に降伏。
1574年1月6日、島津又四郎征久(以久)率いる島津軍が安楽備前守兼寛の籠もる現・垂水市牛根城を攻囲し、肝付軍は救援に向かうが緒戦で撃退され撤退。兼亮の出馬は不明。
1574年1月18日、新納武蔵守忠元の説得を受け安楽兼寛は牛根城を開城。
1574年3月、盟友の伊地知上総介重興と連合して島津方となった禰寝重長を攻めるが敗退。兼亮の出馬は不明。
1574年12月、肝付家は薬丸弾正少弼兼持を遣わして島津に降伏する。
1575年、右京亮兼樹と左馬頭兼亮は肝付家を出奔して日向伊東家を頼る。
1575年、日向救仁院夏井城主麦生田忠能の養子となっていた兼亮末弟の与市を呼び戻して家督を継がせ九郎兼成(兼護)とする。

兼亮にどれだけ実権があったか分からない。仮にあったとしたらけっこう活発に軍事行動してるけど実を結ぶどころか多くの一門重臣を失うことになった。
実際には良兼の時代から島津家に侵食されてて既に衰退してはいた。
戦国肝付家の全盛は兼続時代でその最晩年の高山落城がターニングポイントかな・・・