旧制志太中学校は、開校当初から校技を蹴球と定めた
他の多くの旧制中学では野球を校技に採択したため、
一風変わった伝統を持つことになった
後に学校制度の改変を受け、旧制志太中は幾つかの改名を経て、
現在の藤枝東高等学校へと名を改めた
現在でもサッカー強豪の伝統校である

1960年代、サッカーの指導方法を模索していた清水の市民サッカーチームは、
藤枝東高のサッカー教育を取材し、システマチックなサッカー育成プログラムを立案
市政を巻き込み、清水市全体で少年サッカーを推奨する環境を作り上げる
清水市で少年サッカーを経験した者が、当時、高校の校区を共有していた静岡市へも進学して行く
結果、清水市と静岡市で高校サッカーの水準が跳ね上がった
伝統校である藤枝東、静清地区を代表する清水東・清水商・東海大一・静学などが県代表の座を争い、
これらのどこが県代表になっても全国大会上位で通用することを証明していた
「全国トップクラスの高校が幾つもある」…この事実が、静岡県全体がサッカーのレベルが高いと、
県外の人々に錯覚をもたらした
実際は藤枝東の伝統と、清水市民のサッカー熱、この二つに支えられていたのであり、
静岡県全体の現象ではなかったのだ

1970年代、磐田市にヤマハ発動機が本社移転して来た
サッカー社会人リーグでしばしばタイトルを獲得する、強豪サッカー部を抱える企業であった
だが、それだけ。Jリーグ発足以前に、磐田市がサッカー教育をバックアップすることはなかった
磐田にはサッカー王国と言うべき文化は無かったのだ