404: 名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] 2015/08/16(日) 17:54:28.72

海外遠征への切符がつかめる第3回ヤングライオン杯(87年3月)では、
優勝と準優勝を分け合った蝶野と橋本。
それをなぞるかのように蝶野が選手会長を務めると、
その後を継いだのは橋本だった。

蝶野「選手会長時代、ケガした選手のために積立金を残そうと、
1000万円ぐらい積み立てたんです。
だから三沢威選手(92年引退、現・新日本プロレスメディカルトレーナー)が
ケガした時(獣神ライガーの浴びせ蹴りで頸椎損傷)には、そこから200万円くらい出したんです。
ところが、俺の次に選手会長に就任した橋本選手が、その金で家でちゃんこやったり、地方で若手とメシ食う時に使って、あっと言う間に1000万がなくなった。
それで橋本選手は、マジメな馳や健介に、道場の会議で吊るし上げられたんだけど、
俺と武藤さんがかばって手打ちにさせたんだよね。」