クローソンはストローセンにならって次のように言う。
「『オンリーワーズ』という著作の中でマッキノンは、男性を攻撃用の犬(attack dogs)に見立てており、
 男性をポルノグラフィにさらすことは
 『訓練された番犬に「殺せ」 と言うようなもの』だと論じている」(ibid., p.24)。

「女を犯せ! 縛れ! ナイフで切り刻め!」と絶えず扇動しているポルノグラフィを
「表現の自由」の名のもとに擁護 することができるとすれば、
かつて60年代の公民権運動において、デモ中の黒人たちにドーベルマンをけしかけた
白人警察官の「殺せ!」という言論を、「表現の自由」の名のもとに擁護することもできるのではないか、
そのような言論は「単なる言葉」ではなく、明白な実践であり、行為である、
というのが、この部分でマッキノンの言いたかったことである。

クローソンは、次のような文章をドウォーキンの『ポルノグラフィ』から引用している。
「妊娠は、女が犯されたことを確証するものである。……妊娠は、女がセックスに参加したことへの罰である」。

はっきりしているのは、男女が構造的に不平等で、男性が支配的な地位にあるこの社会において、
セックスのときだけ男女が完全に平等になれると考えるのはナンセンスだ、ということである。
この性差別社会の中ではセックスとレイプとは連続しており、両者の間に万里の長城はないということだけである。