かぐや姫の物語 35
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高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」のスレです
2013年11月23日(祝)全国ロードショー
・関連サイト
かぐや姫の物語 公式サイト
http://www.kaguyahime-monogatari.jp/
スタジオジブリ 公式サイト
http://www.ghibli.jp/
・前スレ
かぐや姫の物語 34 [転載禁止]c2ch.net
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/animovie/1438875736/ ・スタッフ
監督・原案・脚本: 高畑勲 プロデューサー: 西村義明
原作: 「竹取物語」 製作: 氏家齊一郎
脚本: 坂口理子 美術: 男鹿和雄
人物造形・作画設計: 田辺修 作画監督: 小西賢一
作画: 橋本晋治 音楽: 久石譲
濱田高行 主題歌: 「いのちの記憶」
安藤雅司 二階堂和美
山口明子 劇中歌:「わらべ唄」「天女の歌」
他 高畑勲、坂口理子
・キャスト
かぐや姫: 朝倉あき 捨丸: 高良健吾
翁: 地井武男 媼・語り: 宮本信子
相模: 高畑淳子 女童: 田畑智子
斎部秋田 立川志の輔 石作皇子: 上川隆也
阿部右大臣: 伊集院光 大伴大納言: 宇崎竜童
御門: 中村七之助 車持皇子: 橋爪功
北の方: 朝丘夢路 炭焼きの老人: 仲代達矢
石上中納言: 古城環
・キャッチコピー
この地で、ひとりの女性が生きた。
笑い、泣き、喜び、怒り、その短い生の一瞬一瞬に
いのちの輝きを求めて。
数ある星の中から、彼女はなぜ地球を選んだのか。
この地で何を思い、なぜ月へ去らねばならなかったのか。
姫が犯した罪とは、そして罰とはいったい何だったのか――。
日本最古の物語文学「竹取物語」に隠された人間・かぐや姫の真実の物語。
姫の犯した罪と罰。
ジブリヒロイン史上、最高の”絶世の美女”が誕生。 ・よくある質問(ネタバレ注意)
Q.姫の犯した罪と罰とは?
A.かぐや姫の罪とは清浄な月世界にとっては禁断の地である地球上の命の営みを歌ったわらべ唄に憧れたこと
月にとってその唄は穢れの象徴なので、かぐや姫は罰として地球上で穢れに苦しみながら生きることを強いられた
かぐや姫がその苦しみに耐えられず月に許しを請うた時、つまり地球の穢れを認めた時に罰は終わる
(ノベライズ版p.5より)
しかし、この作品のテーマは月世界に押し付けられた「罪と罰」を描くことそのものではない
むしろかぐや姫が月の価値観に抗って生きたように、この地上で生きることを肯定することである
「ああ、そうなのだ!この地に生きとし生けるもの、それらに流れるすべての息吹、
その美しさも汚らしさも、澄んだものも濁ったものも、すべて私は愛していた。
恋い焦がれ、本当に心の底から欲していたのだ。その中で『生きる』ことを……!」
(ノベライズ版p.191より)
一方で、高畑監督は鈴木Pが考えた「姫の犯した罪と罰」という宣伝文句を前面に押し出すのは迷惑だったと言っている
罪と罰について考えたことが「かぐや姫の物語」の発想の種子であることは事実だが
今作のテーマはそんなセンセーショナルな言葉から連想するようなおどろおどろしいものとは正反対だからである
(ロマンアルバムp.159より)
Q.なぜ月はわらべ唄を嫌うの?
A.月世界は浄土でありその住人は天人(仏教)。彼らにとって生(生老病死)と輪廻転生はタブーだから
わらべ唄にあるまわる水車とは地球の意味で、お日さんとは太陽であり命の象徴
この唄はその地球上で繰り広げられる命のサイクル、つまり輪廻転生を賛美するもの
詳しくは天上界や天人五衰で検索(下記レビューも参照)
http://k-onodera.net/?p=198 Q.普通の竹取物語とどこが違うの?
A.レビューがあるのでそちらを参照
・原作との違い
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id344585/rid105/p1/s0/c2/
・五人の公達の贈り物の意味
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id344585/rid53/p1/s2/c9/
Q.なぜ帝との和歌のやり取りや富士山の話が出てこなかった?原作の冒涜では?
A.上記レビュー(原作との違い)を参照
また高畑勲の竹取物語論で言及される「今昔物語集」の竹取物語には上記のエピソードは登場しない
専門家によると現存する竹取物語より「今昔竹取」のほうが古い可能性も指摘されている
Q.夢落ち2回って都合よすぎだろ?
A.あれは夢落ちではない
疾走シーンの後貝が割れていたことからもわかる
月はかぐや姫を監視していてどちらのシーンでも月が巨大化して激おこ状態になってる
姫が月に背き取り返しのつかない事態になったため飛天(クリオネ)の力で時間を操作し無理やり月のシナリオに連れ戻した
(絵コンテp.409-410より)
Q.回想シーンの月のおばさんと海辺の親子は誰?
A.静岡県にある三保の松原に伝わる羽衣伝説
(絵コンテp.750-751より)
海辺に松があり富士山が遠景に見えることから特定できる
羽衣を松にひっかけて帰れなくなった天女と人間の男が出会う物語
竹取物語の前日談としての羽衣伝説という位置付け
この天女が覚えていた地球の歌をかぐや姫が聞いてしまったのがすべての始まり
また天女の歌「まつとしきかばいまかえりこむ」は在原行平からの引用
「まつ」は「待つ」と「松」の掛け詞になっており羽衣伝説の松と地上に残した家族への想いを重ねている
http://shimizu-kaigan.net/asobu/miho.html
Q.あの小さくて可愛らしいお付きの者はなにもの?
A.女童(めのわらわ)
主人の身の回りのお世話をする侍女見習いの女の子
初期設定では名前はウメだった
お迎えのシーンでわらべ唄を歌っていたのは子供や動物には天人の音楽が効かないからか Q.花見のシーンでかぐや姫がすぐ帰ってしまったのはなぜ?
A.美しい桜を見て楽しかった子供時代と里のことを思い出し喜びに浸りきっていたが
子供とぶつかり畏れられ謝られ逃げられたことで、自分はもはや他の人とは対等に扱ってもらえない存在であることを思い知った
山の人間ではなく都で高貴の姫君、つまり姫にとっては「人ではない」存在として生きねばならない疎外感に耐え切れなくなった
Q.かぐや姫の気持ちがわかりませんでした…
A.良レビューがあるので参考にしてください(これが正解というわけではありません)
『かぐや姫の物語』の、女の物語
http://mamiamamiya.hatenablog.com/entry/2013/12/02/100005
Q.石作皇子の求婚シーンでかぐや姫の代わりに座ってた女は誰?
A.石作皇子の正妻である北の方。
北の方は石作皇子の言葉に騙されて不幸になった女をたくさん見てきた。
その悪行に耐えかねてかぐや姫と入れ替わって石作皇子を驚かせた。
「『かぐや姫の物語』の、女の物語」の醜女という解釈は正しくないので注意。
Q.ストーリーが難しくて理解できませんでした・・・
A.映画批評家による良解説があるので参考にしてください。
「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」
週刊映画時評 ムービーウォッチメン「かぐや姫の物語」
https://www.youtube.com/watch?v=JXxIjDGjpyM
「ライムスター宇多丸のシネマランキング2013」第二位(洋画邦画合わせて)
Q.あんなに長いタケノコ食えるの?
A.当時の竹はマタケやハチク。1mくらいまで食える。孟宗竹は当時はまだなかった。
(『文藝春秋』2014年2月号、高畑×宮崎×鈴木鼎談より) ■「かぐや姫の物語」受賞&批評まとめ(8/11追加版)
・2013年度シネ・フロント読者ベストテン 日本映画1位『かぐや姫の物語』
・2013年度シネ・フロント読者ベストテン 監督賞:高畑勲『かぐや姫の物語』
☆第23回 日本映画批評家大賞 アニメーション作品賞
☆第23回 日本映画批評家大賞 アニメーション監督賞 高畑勲監督
☆第23回 日本映画批評家大賞 アニメーション功労賞 小島 俊彦「かぐや姫の物語」他
☆東京アニメアワードフェスティバル2014 特別賞・アニメドール 高畑勲
・おおさかシネマフェスティバル2014ベストテン 第4位
・2013年映画検定有志のベストテン 第5位
・キネ旬戯画 2013年アニメ映画ベストテン 第1位
・KINENOTEベストテン 2013 第7位
☆第68回毎日映画コンクール アニメーション映画賞 (高畑監督では2回目、ジブリでは2001年以後初の受賞)
・2013年「映画芸術」日本映画ベストテン 第10位 (アニメで唯一入選、ジブリでは千尋以来初)
☆2013年日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞
☆2013年日本アカデミー賞優秀音楽賞(久石譲)
・ブルーリボン賞 監督賞・作品賞ノミネート
☆キネマ旬報ベストテン2013年 第4位 (アニメではベスト、歴代ジブリでも4番目、高畑作品では最高)
・東スポ映画祭 作品賞&監督賞 ノミネート (アニメでは唯一)
・ジャパンタイムズ 邦画ベストテン 第1位
・ライムスター宇多丸のシネマランキング2013 第2位(邦画のベスト) ■「かぐや姫の物語」海外公開情報
○海外公式サイト
http://www.theprincesskaguya.com/
2014年10月17日アメリカで公開
2015年1月15日第87回アカデミー賞長編アニメ映画賞ノミネート
○RottenTomatoes 100% (57reviews)
http://www.rottentomatoes.com/m/the_tale_of_the_princess_kaguya/
・最高のおとぎ話だ・・・それでいて深遠で意味深い。ヒロインは浅はかな誘惑に負けず
自分自身に忠実だ
・かぐや姫の物語は唯一アニメーションでしか実現できない作品のように思われる
・あなたがどれだけかぐや姫を楽しもうとも、あなたはほぼ間違いなくかぐや姫を過小評価しているだろう
・かぐや姫の偉大な成功はその美術館級のアニメ表現だけでなく、古い寓話を一新させたことにも基づいている
・日本の古い、よく知られた伝説に基づきつつ、その映画は奇妙で他愛無い寓話のように始まるが、
その壮大な悲しみに観客は不意を打たれるだろう
○受賞歴
第87回アカデミー賞長編アニメ映画賞ノミネート
ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメーション映画賞
ボストン映画批評家協会賞 アニメーション映画賞
トロント映画批評家協会賞 アニメーション映画賞
アジア太平洋映画賞 アニメーション映画賞
ファンタスティックフェスト 観客賞
ミルバレー映画祭 アニメーション映画賞
モントリオール新映画祭 観客賞
アヌシー国際アニメーション映画祭 名誉賞(高畑勲)
ゴールデントマト賞 外国語映画第3位
LETTERBOXD 最優秀アニメーション 落ちてたので立てました
関連書籍とか円盤のテンプレは古いから貼らなくていいかな こんな大作の専門スレがないとか変だと思ったのよ
好きってわけじゃないんだけど、確かに凄い作画とは思う
ジブリでもっとも日本の昔話をアニメ化した意義は大きい かぐや姫の物語はどういう物語だったのか
月に帰らないと行けないと分かった後ですね
糸紡ぎをお婆さんとするんですね
かぐや姫は天女の歌を歌うんですね
めぐれ、めぐれ、めぐれ、遥かな時を
廻って心を呼び返せ、々
人の情けを育みて、待つ年きかば、いざ帰えりこむ
(本当にあなたが待っていたら、すぐに私は帰ってきます)
で、そのシーン変な物が映ります
これ今回のテーマです
雁が飛んでいて、松が描いていて、向こうに分かりにくいですけど、富士山が見えます
富士山から煙が出てるんですね
富士山は西暦1010年頃1回噴火活動したので、平安時代の頭あたりですね
その海岸になんか男の人と子供が走っているシーンがあるんです
次のシーンで松の木の下で、男の人と子供が月を見ているというシーンです
これ何か?
分からなかったですよね 何でこれがあるのかって言うと
これは高畑勲からすると、
日本人だったら全員分かるはずだと
富士山があって、松があるから三保の松原でしょ
三保の松原で月を見て待っているって言ったら
天女伝説に決まってるじゃないですか
三保の松原で、ある漁師が天女が水浴びしているのを見たと
その時に羽衣を隠したと、そのおかげで天女は天に帰れなくなって
男の女房になって、やがて子供ができた
その後、漁師が隠した羽衣を見つけて
天女は天に帰ってしまった
漁師と子供は三保の松原に残されて
天女がまた帰って来てくれるんじゃないかと待っていると言う悲しいお話ですね
富士山と松原で三保の松原でしょ
それで男と子供が待ってるでしょ
天女伝説分かりますよね?羽衣ですって
分かる訳ねえよwwwwwって思うんですけど
これがクライマックスシーンで見せる映像なんです
この後、続けて流れるのが月の貴婦人です
月の貴婦人が歌いながら泣いている
これを見てかぐや姫は地球に対して憧れるようになった、ですね
(月の貴婦人)
これコンテにですね、いなくなった子供を抱くようにって書いてあるんですね
つまり、この人はですね、子供がいたんでけども、その子供がいた記憶さえ奪われてしまっている
記憶をずっと奪い続けているのが、この周りにいるティンカーベルですね
妖精達が奪っているので、だから何が悲しいのか分からなくて泣いていると 何かって言うと、もう一度子供に会いたいから泣いているんですね
だから、この手だけが赤ちゃんがいた空間を示している訳なんですね
で、それを見てかぐや姫は何故か地球に行きたくなったと
変なんですよ、何でかぐや姫が地球に行きたくなったのか以前に
何でかぐや姫が月にいたのかです
かぐや姫ってその時にちゃんと少女として月の世界で描かれているんですね
少女が子供が月の世界にいるはずがないんですよ
月の世界は不老不死なんですから月の世界は大人しかいないんですね
その世界で子供のかぐや姫がいるって事は何かって言うと
恐らく二人目の子供なんですね
三保の松原の漁師の
かぐや姫は
で、この女の人の子供で、月に来て生まれちゃったんですよ
だから、自分の母親とも分からないんですね
自分の母親とも分からない人が、もう一回地球に帰りたいと思って泣いているのを見て
同じ気持ちだーって分かるんですけど
かぐや姫は自分がそうい存在だと知らない
だからかぐや姫は地球に憧れちゃうんですよ
別に月の人が地球に憧れたんではなくて
当たり前なんですよ、地球人とのハーフなんだから
地球に憧れたって言うだけの話なんですね
でも、月で生まれたから不老不死になっていると でどうなるかって言うとですね
じゃあかぐや姫は地球に降りて来た
辛い事もありました、良い事もあったんですけど
捨丸兄ちゃんと空を飛ぶシーンがあります
抱いて!強く抱いて!って言います
包容って高畑勲監督はですね77才になって
包容と言う言葉を使うとは思わなかったって言って照れていて
コンテにも77年生きていて包容と言うのは初めて書きましたって書いてありましたけど
あの空を飛ぶシーンは、はっきりあれなんです(自主規制しましたよw)
あれしてそれを見つかったので罰を受けたって言うのがその〜、堕落
月に見つかって堕ちるシーンのメタファーなんです
あそこで、抱き合っているのがあれだって言う事は
だいたい見ている人の中で、そういう事が分かる人はだいたい分かると思うんですけど
その結果を考えない
かぐや姫の罰と言うのは何かって言うと
もう一回、月に帰る時にお腹の中に子供を宿している事なんですね
だからラストシーンでこれが出る訳ですよ
(月に赤ちゃん)
なんで、ラストシーンでこんなもんが出るのかって言うと
もう一回同じ過ちを繰り返すんですね
もう一回同じ過ちを繰り返して、かぐや姫と捨丸兄ちゃんの間に出来た子供は、又地球に行きたくなるんですね
だから、めぐり、めぐるって言うのがずっとつづくと言う話なんですね
めぐり、めぐると又同じ事がある めぐり、めぐって又地球に帰って来ますとうのは、何かというと
かぐや姫が帰って来ますと言う事じゃないです
この過ちは永遠に続いて、それは又地球人にとっては散々だったのかも分かんないですけど
なんで最後に赤ちゃんが出てくるのかって言うと
同じ様な存在が又地球を見ています
そして、彼女は地球に来たがるでしょう
なんでかって言うと、その子供は元々地球に憧れるべくして生まれた様な子供だから
月の世界の人間だから地球に憧れたんじゃないんですよ
かぐや姫だから憧れたんではなくて、元々地球人との間に生まれて
地球の血を継いだ子供だから、地球に憧れてかぐや姫は来たくなってしまっている
これを絶望と捉えるか、希望と捉えるかなんですね
そうやって、やっぱり出会うべきものでないものも出会ってしまった
そして、そこに何かある事が命だと
それを悪い事だと考えるのが月の人で
それは悲しい事かも知れないけど
私達の世界の出来事で語り継いで行こうというのが日本人の発想だ
だから又会える、同じ過ちを繰り返すと、あの歌ができているんですけど
これってマドカマギカなんじゃないのかなって 基本、月はあの世、死の象徴でいいんじゃない
(例えばマチルダさんと月の画像で
この人は死んじゃいますと暗示しているとか)
反対に太陽は”生”やこの世?の象徴なのかな 数か月の間に、女の子はすくすくと成長し、年ごろの娘になりました。
お爺さんは「竹から生まれたから、竹姫でいいだろう」と
言いましたが、女の子は「そんなダサい名前は絶対イヤ」と言い張り、
「赫(かがや)き映(は)えるほど美しい」から「赫映姫(かぐやひめ)」だと自分で名乗りました。
確かにいまやかぐや姫となった女の子は、この世のものとも思えぬほどの
美しさを持っていました。しかし、天は二物を与えなかったのか、
性格はこれ以上ないほどのビッチになっていました。
お爺さんの家の周りには、かぐや姫とハメようとする男どもが
たむろするようになり、真っ昼間から嬌声が響くありさまでした。
お爺さんお婆さんは、なんとかそれをやめさせようとしましたが、
ビッチなだけでなくものすごいワガママで傲慢なかぐや姫は
「貢がれたカネを家に入れてるんだから文句を言うな」と言い放ちました。
それでも、男どもの中にはまともなものもいくらかいました。
誠実な男たちはかぐや姫と結婚したいと願い、お爺さんに
その旨を伝えました。お爺さんはよろこび、
「わしも婆さんも、もう先が長くはない。おまえにも
まだ多少なりとも孝行の気持ちがあるなら、早く結婚して
孫の顔をみせておくれ」と言いました。かぐや姫は、
「なんで結婚なんてしなきゃいけないのよ」と嫌がりましたが、
ふっと楽しそうな顔でにやりと笑い、「そこまで言うなら、
わたしのお願いを聞いてくれた人と結婚しましょう」と言いました。 Q.夢落ち2回って都合よすぎだろ?
A.あれは夢落ちではない
疾走シーンの後貝が割れていたことからもわかる
月はかぐや姫を監視していてどちらのシーンでも月が巨大化して激おこ状態になってる
姫が月に背き取り返しのつかない事態になったため飛天(クリオネ)の力で時間を操作し無理やり月のシナリオに連れ戻した
(絵コンテp.409-410より)
Q.回想シーンの月のおばさんと海辺の親子は誰?
A.静岡県にある三保の松原に伝わる羽衣伝説
(絵コンテp.750-751より)
海辺に松があり富士山が遠景に見えることから特定できる
羽衣を松にひっかけて帰れなくなった天女と人間の男が出会う物語
竹取物語の前日談としての羽衣伝説という位置付け
この天女が覚えていた地球の歌をかぐや姫が聞いてしまったのがすべての始まり
また天女の歌「まつとしきかばいまかえりこむ」は在原行平からの引用
「まつ」は「待つ」と「松」の掛け詞になっており羽衣伝説の松と地上に残した家族への想いを重ねている
http://shimizu-kaigan.net/asobu/miho.html
Q.あの小さくて可愛らしいお付きの者はなにもの?
A.女童(めのわらわ)
主人の身の回りのお世話をする侍女見習いの女の子
初期設定では名前はウメだった
お迎えのシーンでわらべ唄を歌っていたのは子供や動物には天人の音楽が効かないからか
Q.花見のシーンでかぐや姫がすぐ帰ってしまったのはなぜ?
A.美しい桜を見て楽しかった子供時代と里のことを思い出し喜びに浸りきっていたが
子供とぶつかり畏れられ謝られ逃げられたことで、自分はもはや他の人とは対等に扱ってもらえない存在であることを思い知った
山の人間ではなく都で高貴の姫君、つまり姫にとっては「人ではない」存在として生きねばならない疎外感に耐え切れなくなった 高畑勲監督って感情移入の演出が下手なのでは?
私が監督したものでは、「赤毛のアン」「じゃりん子チエ」「平成狸合戦ぽんぽこ」がそうです。「ホーホケキョ・となりの山田くん」
なんかも今のアニメの風潮に対するアンチテーゼとして出しています。
でも日常生活の中の小さなことを扱っていて、壮大なものではなく没入型でもありませんから、ヒットしにくい。
めくるめく世界に没入させてくれるのはディズニーランドです。
お客さんを乗り物に乗せて現場の中に突っ込んでいきます。
自分がその中の一員になれたような感じがするわけです。
そういう没入型のディズニーランド方式をアニメで成功させたのが宮崎駿さんや細田守さんだったとも言えるわけです。
没入する方が、観る方も満足です。気持ちが面白いように翻弄されるわけですから。
―没入させないということは、観る人の自律性を考えておられるのですね。
今のアニメの傾向は感情移入型の「思い入れ型」と私は勝手に呼ぶ。
主人公に思い入れをするのに、やや眼が曇っていても平気になっている。
思い入れてなければ、主人公や世界に対して違う発見もできるんだろうが、主人公がどういうものに遭遇して自分も一緒にドキドキしていくかが大事とされる。
曇らない眼で見てるんじゃなくて曇りたいらしい。
世界を見て、その中で登場人物に対して自分があの立場ならどうふるまうだろうか、どう違う行動を起こすだろうか、
といった「考える」余地を全く与えられていない。
そういう風に感情移入させずに、視聴者に考える余地を残す作風の人が「これが真実の物語!」って描いちゃうと、そりゃあおかしいものになりますね。 日本最古の物語である『竹取物語』を映画化したい───なんとねじれた愛国心だろうか。高畑勲が『かぐや姫の物語』で行おうとしたことは、日本の文化への根本的な批判なのだから。
結論から言ってしまえば、これは天皇制と男性中心社会を批判する純然たる左翼映画である。
『かぐや姫の物語』では「命」というテーマが用いられる。しかしながらそれは「せっかく生まれてきたのだから、命を大事にしましょう。
自分の命も、他人の命も。動物や虫の命まで」
といった道徳的教義だけのものではない。
本作のキャッチ・コピーは「姫の犯した罪と罰」である。
作中で語られる限り、姫の犯した罪は汚れた地である現世に憧れたことであり、その罰として地球に降ろされたのだとされている。
しかしながら、それは物語のプロット上の罪と罰である。かぐや姫は月に帰らねばならないことを告白した後に、このように嘆く。
「私は生きるために生まれてきたというのに」
作品の主題上の罪は「生きるために生まれてきたのに、生を生きていないこと」である。
その罰として月に帰らねばならない。こうして、もう一つの罪と罰が浮かび上がる。
「死んでもないのに生きてもいない状態」の顔を、かぐや姫は作中で何度か見せている。
それは主に「高貴な姫君」となるべく彼女が矯正されていく過程の場面である。
なぜ彼女は「高貴な姫君」にならなければならないのか。
それは「高貴な御方の妻」になるためである。かぐや姫に求婚した五人の貴公子たちは口を揃えて「かぐや姫さまは私にとって宝です」と褒め讃えるが
それは明らかに「女性は男性の所有物である」という男性中心社会の考え方を炙り出している。
つまり、かぐや姫は「生きるために生まれてきたのに、位の高い男性に所有される高貴な『物』となるように育てられた」ことによって
月に帰らねばならなくなったのである。
かぐや姫を(男性に献上される)「高貴な姫君」に育つよう仕向けたのは竹取の翁、つまり父親なのだが、ここに本作の重要なテーマがある。
竹取の翁はかぐや姫を山小屋で育てている頃に、かぐや姫を見つけた時と同様の光る竹を再度見つける。
その竹を切ると中から金が溢れだし、翁はこう確信する。
「天が姫を高貴な姫君にするよう金を授けなさったのだ」
天皇制が欧米の王室や中国の皇帝と違う点は「神(の子孫)である」ということである。世界には多くの王が存在したが、その多くは「神によって民を治める権利を授かった」という設定によって権力に正当性を与えていた。
王権神授説である。しかし、日本の王たる天ちゃんは、建国を行った神から代々続く神の子孫であるという設定によって権力に正当性を与えた。
なので「天が私にこのような使命を与えたのだ」という翁の言葉は、西洋の騎士が「神が私にこのような使命を与えたのだ」という言葉とは意味が変わってくるのである。
かぐや姫は帝の意思によりモノとなることを最初から義務づけられ、そのために月に帰ることとなる。
高畑勲が『竹取物語』を映画化すると聞いて、最初に考えたことは「帝をどのように扱うのだろう」ということだった。
高畑勲という人は、権力者を嫌悪し、民衆の自由を主張し、子どもと鳥を愛した詩人ジャック・プレヴェーアナルを敬愛していた。
彼の翻訳を出版したり、彼が脚本を書いた名作アニメーション『玉と島』をジブリから配給したりもした。
そんな高畑勲が天皇が登場する物語をどう扱うのか。まぁ、やっぱりこうなったかというところである。
それにしても、あまりに力みすぎである。まずもって物言いが直接的すぎる。
「生」に対してもそうであるし、男性社会や権力の描き方には露骨な悪意を感じる。極めつけは「帝」である。突き出した顎wに角張った肩、安直な性格に「私のものになることを喜ばない女はおらんのだ」といった台詞など、時代が時代なら不敬罪で逮捕されるであろう。
別に作品のテーマはこれでいいのだ。せっかくの作画の素晴らしさとアンバランスなのである。それに捨丸の存在も微妙である。原作にはいない登場人物だが「ジブリっぽさ」のために出して来た感じが拭えない。
宮廷のしきたりや高級な調度品は馬鹿にしているが、捨丸の家の生業は民芸品の制作であるということも何かをほのめかす程度で書き込みが足りない。
文明の高度化は人間の技術の先に現れるということについて、もう少し何かしらの解釈をしても良かったのではないか。
高畑勳の意地は十分に観れた。しかし、それに作品が追いつかなかったか、意地が作品を追い越してしまっていることは否めないだろう。
高畑の才能には毎度脱帽です。かぐや姫の物語は本当に素晴らしい作品である。 読んだことなかったんですが、こんなお話だったんですね。
完全にかぐや姫目線で観てしまっていたのですが、とにかく男の人にあんまり好感を持てない。
唯一持てるのは捨丸兄ちゃんぐらいですね。いけめん。
あ、でも、兄ちゃんも奥さんいるのにかぐや姫と駆け落ちする気になっちゃいましたね。夢オチな感じになってふつうに奥さんのところへ戻っていましたが。
媼は比較的姫に理解のある人ですが、それでも最初に都に行くときに姫の意見を聞いてあげなかったのがちょっとびっくりでした。
相模は完全に高畑淳子でしたね。声を聴くたびに高畑淳子がちらついてましたよ。
田畑智子演じる女童は原作には登場しない映画のオリジナルキャラクターですが、このキャラはすごくいい役割をしていたと思います。
外出できない姫のために桜の枝をもってきたり、最後だって子供たちを連れてわらべ歌を歌うなんて、なんて気の利かないクソガキw
見た目もまるっとしててかわいいし、この映画で誰がすきって聞かれたら、間違いなくアゴ男を選びますね。
映画のキャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」でしたが、そんなサスペンスな雰囲気ではなく、かぐや姫という1人の女性の生きる喜びとか苦悩を描いた作品でした。 >>24
長めのアイスピックを握って右の耳穴から左の耳穴へ思いっきり突き刺せば
とっても静かになりますよ むかしむかし、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。
お爺さんは山へ竹取りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
お爺さんがいつものように竹やぶに入ると、
そこで見たこともない光輝く竹を見つけました。
これはきっと高く売れるとオノを振るってみると、なんと中から
ちいさなちいさな、驚くほどかわいらしい女の子が現れたではありませんか。
お爺さんは面倒なことは嫌いだったので、さっさとその場を
立ち去ろうとしましたが、女の子はお爺さんの服をつかんで
離しませんでした。ずるずると家まで引きずっていき、
とうとうお爺さんは根負けして、洗濯から帰ってきたお婆さんと相談し、
しかたなくその子を殺害、解体し川へ流すことにしました。 竹取物語はおおよそ10世紀くらいだと推測されています。
現代人が竹取物語を見て仏教的なエッセンスにいまいちピンと来ないのは、当時は浄土教が広く普及していて、浄土信仰が人々の死生観に強く影響を与えていたからだと思います。
そして浄土信仰の死生観から竹取物語を見た時に、
まさしく今回のジブリの「かぐや姫の物語」のような悲しいストーリーが浮かび上がってきます。
かぐや姫の罪と罰、穢土と浄土、生と死。
かぐや姫の髪上げの儀の際の夢では、非人間的な速さで里山へ帰りますが、そこでは山は冬を迎えています。
山が死んだと思っていたかぐや姫が春の準備をしているだけと知り、まさしく「流転の相」に気付き、そこで夢から目が覚めるのですが
あそこで絶望していたら月からの迎えはあの時に来ていたのではないかと思うのです。
ここで面白いのは物語終盤までは登場しない月世界の概念、地上世界と月世界の対比を
「里山」と「都」
で表現しているところでしょう。
都は穢れのない高貴な人を目指す場所であり、かぐや姫が真に求めているのは穢れ(人間らしさ)に満ちた里山での生活でした。
かぐや姫は女であることを喜んでいいんだか疎んでいいんだか女をどう扱えばいいのかどう扱われたいのか分かんなくなってイラっときたり
不安になったりしたので性未分化の性別:女は見ちゃダメだとおもった ていうか女にしか分かんないだろうシーンいっぱいあった
『かぐや姫の物語』捨丸との再会シーンからのアレは馬鹿馬鹿しくて見てられなかった。
月からのお迎えも「え、結局その程度の解釈と表現かよ」とガッカリしたなあ。
今50億もかけて竹取物語をやる意義をこの作品からは何も感じられなかった。
もう結論から言うと、月は死者の国であり、仏教・浄土信仰における極楽浄土です。
先の歌でもある通り、命を象徴するのは「お日さん」であり、月は夜を意味し「死」を象徴しています。
作中でも実際にかぐや姫を迎えに来たのは、すげえパンチパーマの効いたそっくりさんでもない限り、阿弥陀如来その人です。 「憧れてやってきた」だけでは自分の意のままになるような感じがある
だからなぜ意に反して帰らないといけないのかわからなくなる
たしかに月に帰りたいと助けを呼んでしまったが
その後ようやく憧れてやってきたことを思い出したんだから
まだ地球にいればいい
「憧れたのが罪」で「その罰としてやってきた」ということなら
罰が終わったから不浄の地から回収されるという強制性があり納得できる
信濃なる千曲の川の小石も君し踏みてば玉と拾はむ
恋人の触れたものなら、たとえ小石であろうと、自分にとっては宝物、と思うのは、恋する男女に共通の心情である。
この歌の背景には、人の触れたものには、その人の魂が宿るという当時の考え方があるといわれる。
子供らがわらべ唄を歌い姫を呼び返そうとする場面が「魂呼い」なら
クリちゃんもとい飛天が姫の愛用の品をめぐる場面はふれた物からも宿った魂すら残さないという場面か
かぐや姫でも木地師の生活なんかが丁寧に描かれてる
当時の植性まで調べて竹林を描いた
ジブリの後継者になるならこういうこだわりまで受け継がないと
共通認識というかわかっている世界を舞台にしたいんじゃないか
語りたいなら語らせる、それでいい
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