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#254 岡田斗司夫ゼミ「新発見『もののけ姫』サンとエボシ姫は親子だった?!シシ神の正体は?」
2018/10/28(日) 開演: 19:30
今夜のニコ生ゼミは『もののけ姫』の後半です。
おとといの金曜ロードショーでの放送を見て頂いた方も多いかと思います。
その記憶が新鮮なうちに、いくつかのテーマで、新しい『もののけ姫』の見方を提示します。 >>544
どんなのを中二病と思って書いてんのかがわからんw
とにかくレッテル貼って馬鹿にして印象悪くさせようと思ってるってことかなぁ 中国 ロシア アメリカなど諸外国に対して日本もアシタカのように立ち回れる国になれたらいいのにな アシタカはあんまりコミュ力高そうじゃないが
ずっと隠れ里に住んでたせいで人前で砂金使うくらい常識が合ってない 本当は子供に見せられない『もののけ姫』。無防備なサンとアシタカに何があったのか問われた宮崎駿「わざわざ描かなくてもわかりきってる!」
https://news.nifty.com/amp/item/neta/12237-112728/ >>559
上でも指摘されてるけど結構ガバガバだしね 本当は子供に見せられない『もののけ姫』。無防備なサンとアシタカに何があったのか問われた宮崎駿「わざわざ描かなくてもわかりきってる!」
http://originalnews.nico/144137
毎週日曜日、夜8時から生放送中の岡田斗司夫ゼミ。
。
実はこの、村の出口でカヤに呼び止められるシーンというのは、そういう意味ではないんですよね。
ここでの描写は、全て“象徴”に過ぎないんですよ。
ここが『もののけ姫』を作る時に宮崎駿が取った「必要なことは全て描くけども、わかるようには描かない」という部分なんですね。
村の外れに、夜中、女の子が偲んで会いに来て、そして「自分は生涯、恋をしない」=「貞操の印」というのを男に手渡したわけです。
これ、どういう意味かというと2人は人目を偲んでセックスしましたっていう意味なんですね。
だけど、宮崎さんは、そんな直接的なセックスシーンを描きたくないので、わざわざ「私はいつまでも貞操を守ります」という言葉と、小刀を渡すことによって、それをメタファーとして表現しているんです。
本当は、ここでカヤとアシタカは、人目を偲んでセックスしている。
だから、カヤの中には、ちゃんとアシタカの血筋が残ることになり、そうやって生まれたカヤとアシタカの子孫たちが、オープニングで映される土面の紋様として“アシタカ王の伝説”を語り伝えていくという話になっているんです。
でも、宮崎さんって人一倍恥ずかしがり屋だから、こういうことを誰にでもわかるように描かないんですね。
これとは違う、もう1つセックスにまつわるエピソードが『もののけ姫』の中に入っているんです。
それが、怪我を負い、サンに看病されたアシタカの傷が治って、何日も寝たきりだったところから起きるというシーンです。
サンの暮らす岩屋の中で、アシタカは寝ているサンを見つめているんですけど。
この時のサンは、かなり無防備な寝顔で寝ていて、おまけに脚も見えているんですね。
このシーンのコンテを見てピンと来た鈴木敏夫は、「この時点で、2人はセックスしてますよね?」と聞いたそうなんですよ。
宮崎駿って、こういうふうに作品について何かを聞かれた時には「いや違う」とか、「そうです」というふうに、絶対に何か答えるんですけど。
この件に限っては、宮崎駿は一切答えようとしなかったそうです。
そんな話を、鈴木敏夫はすごく嬉しそうにラジオで語っています。
ちなみに、その後、鈴木敏夫が問い詰めた結果、宮崎さんは「そんなの、わざわざ描かなくてもわかりきってるじゃないですか!」って言ったそうなんですけど(笑)。
宮崎駿が『もののけ姫』で取った表現技法というのは、こういうものなんですよ。
「女が夜中に男に会いに行った」というだけで、アシタカやカヤの部族では「関係があった」とみなされるわけですね。
おまけに、カヤはそこで「私も連れて行って!」とは言わないし、アシタカが出ていくことに関してもグズグズ言わない。
それはなぜかというと既に2人はセックスしていて、彼女は子供を貰っているからだという意味なんです。
アシタカの血筋はこの村に残り、カヤがそれを受け継ぐ。
つまり、宮崎駿に言わせれば「このシーンを見ておいて、そんなこともわからないようなヤツは、そもそも俺の映画はわからねえよ!」ということなんですね。
……「そんなもん、わかるはずがあるか!」と(笑)
僕も、この映画が公開した時、何度も映画館で見たけどわからなかったですし、その後、VHSで見てもわからなかったし、DVDで見てもわからなかったです。
今回、この企画用にBlu-rayで見た時に、初めて「ああ、そういうことか」ってわかったんですよ。
それも、あらかじめ、鈴木敏夫がラジオで語っていた「サンとアシタカはちゃんとセックスしている」という話を聞いた上で、このシーンを考えて、やっと気がつくことが出来たんです。 >>559
> 宮崎駿作品でこれだけは面白さが分からん…
えええええええええええええええええええええ???
逆だろ
もののけ姫だけが神
永遠のナンバーワンだわw
殺伐として笑いも恋愛もなにもなし
ただ殺し合いしてるだけw
ラピュタとかトトロとかぬるいわ
女子ども向けwww 俺もそうやな。ラピュタに関してはかなり格下に感じる。
トトロは幼児まで。 砂金の大粒は奥州藤原氏の存在を臭わせるな
アシタカ達は蝦夷だろうけど大分血が薄くなってる
たたら場もアシタカの村も時代の波に押し潰されて終わりを迎えるだろうな 俺はハウルと千尋だな。これらは駄作
後者が受けたのは日本では数年ぶりのジブリだったから(今放送したら作画すごいで終わる)
海外ではエキゾチックだったからだろ(アジアと欧米では温度差ある)
シナリオだけ見たらテキトーすぎ。尺は十分あるはずなのに >>559だけど、色んな人が居るんだな
ハウルは微妙だけどポニョと共に映像が生命溢れて面白いし、千尋が最高の作品と思う
最初の揺れる車内の憂鬱な空気だけでご飯三杯いける >>1
「もののけ姫」も素晴らしく大好きな映画ですが、
「事実も小説・フィクションよりも奇なり」です。
そして、人生そのものが真の娯楽・快適モードになれる知識がそこに有ります。
【神・救済の存在証明】
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国語以上に翻訳されて読まれ続けているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
そして、その「正しい理解・認識」によって「神の存在の確信」と「安心感ある人生」が可能になります。
事実、この知識の有る無しほど大きな「幸福格差」はないと思います。
すぐには信じがたい話だとは思いますが「運命は全て必然・完璧・(深い意味で)成功のみ」とのことです。
また「我々の魂は永遠に不死」です。
そして、世の多くの宗教は同じ一つの神からのメッセンジャーにより発生したものとのことです。
一見、少し怪しい題名の本ですが、誰にも身近な共通の一つの神様です。
これらの事を「知るだけ」でも人生の絶望が無くなり、最大の財産を手に入れたことになると思いますし、
知ると知らないでは人生の楽さに大きな差が出ます。
人生の価値観や優先順位も確実に大きく変わると思います。
そして「魂は不死であること」を「医学的な奇跡・検証」で証明した『喜びから人生を生きる!(臨死体験が教えてくれたこと)』という世界45か国でのベストセラー本も紹介しています。
もちろん無料です。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome もののけ姫はジブリでもっともグロいからな
けどそれでいい
ポニョとかラピュタとか子供が観てるのはいい
けどオッサンにはダントツでもののけw
他はガキ向け 久々に見たけど
よく出来てるなと思う
今はこういうアニメないもんな
まぁ作ろうとする人も才能も環境もないんだろうが 金ローで久々に見たけど、おトキさんが癩病の職人から干し柿貰って食べるシーンが一番好き アシタカが病み上がりにこけるシーン、パヤオが何度も自分で体現してこうじゃないこうじゃないって
やってるの見て昔なんかゾッとしたの覚えてる
悪い意味じゃなくてね >>566
そのへんは幕下みたいなもんで凡百の劇場アニメと肩を並べる程度だと思うわ。
さすがにラピュタ、千尋以上は別格。 まぁあれだ、とりあえずサンタソの初オナエピのスピンオフ製作を激しくきぼんぬ☆ お ま た せ
もののけ姫
1999年 1月22日(金)35.1%
2001年 1月26日(金)26.9%
2003年 2月14日(金)27.0%
2004年11月19日(金)23.3%
2006年 5月12日(金)18.2%
2010年 1月8日(金)18.4%
2011年 7月1日(金)15.9%
2014年 7月4日(金)21.9%
2016年 8月5日(金)15.1%
2018年10月26日(金)12.8% ←new 結構落ちてるね…
やっぱりもう過去の作品なんだと思う 宮崎アニメの中では下から数えた方が早い駄作
ユーモアが薄く、衒学的な要素や眉間にしわを寄せたカッコつけた場面ばかりが目立ち
宮崎が旗印にしてきた「まんが映画」から外れてしまっている 駄作とは思わんけど笑いがなかったね
2014年は視聴率上がってるけどなんかあったんか 腕や首を切り落とすシーンもあるが、そういうのはまんが映画を作ってきた宮崎駿としてどうなんだよ
ああいうシーンを入れたことで、宮崎駿としての評価が落ちたと思う
対象年齢を上げようという意識があったからあのようなシーンが入ったと思われ、それを指示したのは鈴木敏夫ではないのか
とにかくこのアニメはつまんなくて嫌い 岡田斗司夫とかいう糞の妄言が今後さも真実かのように語られていくかと思うと怒りで震えてくる 作家としてクリエイター(御本人が嫌う言葉だが)としていつまでもおんなじモン作りたくないだろうとか想像つかないのかな……… っつか、いわゆる“ハリウッド映画的エンターテイメントな内容”を望む人らには不向きな作品だとオモ 登場人物が超人で感情移入できないのと、テーマが駿内で完結した独りよがりなものに感じる 先日の金曜ロードショーとニコ生を聞いて
今日、ジブリの教科書で復習してたら、
クッソ面白いwwwww
久しぶりに一生懸命本読んだwwwww 東北地方の砂金はピンクがかってるから
アシタカが出した砂金にもっとピンクを足せと指示した雑学王パヤオ 「【『もののけ姫』冒頭10分の完全攻略! 1 】 タイトルのバックに表示される絵の意味」
では、さっそく「『もののけ姫』を10倍面白く見るための冒頭10分を完全攻略」という話を始めたいと思います。
これが『もののけ姫』のタイトル画面です。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613045/c47922947122f6df34636c18a8407621aaf46a69.png
こんなふうに「もののけ姫」という文字が大きく映るんですけども、このタイトルの後ろには、何か模様が描いてありますよね?
これは何かというと “土面” なんです。
縄文人達が身につけていたと言われる、縄文時代の遺跡から発掘された、土を軽く焼いて作ったお面みたいなもの。
実際は、こんなお面です。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613046/e93b435add67e596038338f3f3a251c5d4805ed5.png
Googleで「土面」と検索すると、こういう参考画像がいっぱい出てきます。
タイトル画面のバックには、こういった土面の模様が表されているんです。
これは、絵コンテにも「土面に朱色で塗られた模様である」と書いてあるんですけど、パッと見ただけでは、なかなかわかりにくいですよね。
なので、今回は一応、このタイトル画面から「もののけ姫」という文字を抜いた画像も用意しました。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613048/a1f83b16eab7ef426d073f3083a1bce340462fef.png
これがその模様なんですけど。
これでも、何が描いてあるのかよくわからないですね。
なので、分かりやすくするために、ちょっとマジックでなぞってみましょうか。
……すみませんね。
「そんなの、あらかじめ書いとけ!」っていう話なんですけど。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613049/3406225dc6574fde100ac30e205f79be7a7e863b.png こんな感じかな?
見やすくなってればいいけどな。
こういう感じなんですね。
これ、何かというと「一つ眼の怪物に角が何本も生えている」という絵なんですよ。
この土面に描かれているのは、縄文的な模様であると同時に「一つ眼の怪物に “シシ神” の頭が付いている」という絵なんですよね。
『もののけ姫』のクライマックスで、シシ神という、生と死を司る、猿みたいな顔したシカみたいな神様が出てくるじゃないですか。
その “冠を被っている一つ眼の怪物” なんですよね。
つまり、タイトルのバックに表示されるこの模様は、アシタカの物語を後世に伝えるためのものなんです。
“一つ眼”というのは何を表しているかと言うと「鉄を作る」ということなんです。
かつては、いわゆる山の民と呼ばれる者たちが、鉄鉱石とか砂鉄を採ってきて、それを炉に入れ溶かして鉄を作っていたんですけど。
そういった作業をする人達は、片目で熱い熱い炉を見続けることになるので、みんな目が潰れちゃったそうなんです。
そのおかげで、日本各地には「山に一つ眼の怪物がいる」という伝説が残っているんです。
そういった一つ眼の怪物の伝説というのは、全て、近くに鉄鉱石が採れたり、砂鉄が採れたりする地方なんだそうですね。
そういうふうに、日本には「鉄の民というのは必ず片目」というルールがあると思ってください。
そして、この絵は「片目が潰れた鉄の民」を表現していると同時に、「森の神様を殺して、その角を譲り受けた」ということも表しています。
これについては後半で詳しく説明しますけど、実は『もののけ姫』というのは『風の谷のナウシカ』の復讐戦なんです。
『風の谷のナウシカ』で、ファンタジーとして描いた物語と全く同じ話を、宮崎駿がもっとリアルに作った作品なんですね。
なので、この2つの作品は、わりと対応するように作られているんですよ。
たとえば、『風の谷のナウシカ』のオープニングでも、本編での主人公のナウシカ自身の活躍が伝説となった未来に描かれたタペストリーが写った後で、そんなタペストリーに描かれた絵とダブらせるようにして、ナウシカが初登場するんです。
そして、『もののけ姫』のオープニングというのも、土面に描かれたアシタカの伝説とダブらす形で、アシタカが初登場するようになっているんです。 つまり、『ナウシカ』と『もののけ姫』は、全く同じ構造で本編のヒーローを紹介しているんですよね。
まあ、『ナウシカ』の時は、すごくわかりやすいタペストリーからの主人公の登場になっているんですけど。
なんせ『もののけ姫』は「『ナウシカ』はちょっと子供っぽ過ぎた」という反省の元に作られているので、ここらへんはメチャクチャわかりにくいんですけど。
??
『もののけ』では、本編で描かれるアシタカの物語がふるさとの村に伝わって “我らが王子の冒険を称える図案” として、残っているわけですね。
つまり、物語が終わった後も、アシタカはタタラ場に残りました、と。
そして、タタラ場の仕事を継いだので、当然、片目は失明したのだと思われます。
その結果 “一つ眼のアシタカ” というような名前になったんでしょう。
この土面に描かれた図案は「一つ眼のアシタカ王子が、シシ神を倒し、その角を受け継いだ」という意味なんです。
こういった土面に込められた意味が、なぜ分かりにくいかというと、皆さんの予想通り、これはもう全て鈴木敏夫が悪いんですよ。
鈴木敏夫が、この作品を『もののけ姫』というタイトルにしてしまったからなんですよね。 宮崎さん自身は、『もののけ姫』ではなく、『アシタカせっ記』というタイトルを考えていたんです。この “せっ記” というのは宮崎さんの造語で、「〇〇伝説」みたいな意味だと思ってください。
つまり「アシタカの伝説」みたいなタイトルだったはずなんです。
「アシタカの伝説」という触れ込みで見始めれば、みんなも「主人公はアシタカという男なんだ」と思って物語を追い掛けて行ったと思うんですけど。
でも、途中で『もののけ姫』にされちゃったんですね。
これと似たようなことは、僕も昔『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を作った時に経験しました。
スポンサーだったバンダイさんから、最初「この映画のタイトルは『リイクニの翼』にしてくれ」と言われたんですよね。
「いや、リイクニは主人公じゃありませんし、彼女が主人公だと思わせるタイトルを付けたら、話が歪みます」って言ったんですけど、
向こうは、ヒットした劇場アニメである『風の谷のナウシカ』みたいに「〇〇の☓☓」というタイトルにしたかったみたいなんです。
その結果、「リイクニが抽象的な意味で翼を得る」みたいな意味で『リイクニの翼』というタイトルでいいじゃないか、と。
その時は「映画館に来た人達は、ちゃんと彼女は主人公じゃないってわかるから、大丈夫だよ」って言われたんですけど、そんなことをやったら絶対にダメなんですよ。
それは、本来『アシタカせっ記』として作られたこの映画を、『もののけ姫』というタイトルにしてしまったばっかりに、観客の印象が大きく歪められてしまったことからも明らかなんです。
このタイトルの改変は、宮崎駿もすごく嫌がったんですけど、鈴木敏夫が「金曜ロードショーの放送内で先に発表してしまう」という方法を取って、無理矢理このタイトル変えてしまったんですよね。
このタイトルの改変については、たとえば『風の谷のナウシカ』のタイトルを『大怪獣 王蟲』にしたらどうなるかを考えてください。
あの映画が『大怪獣 王蟲』というタイトルだったら、ついついみんな「これは王蟲という怪獣を退治する話なんだ」とか、「誰が、どんな方法で退治するんだろう?」とか、「ラストで王蟲は森に帰るけど、まだ生きてる。
次は王蟲は何と戦うんだろう?」みたいに、まるで『ゴジラ』を見るのと同じように、物語を追うことになっちゃうんですね。
反対に、『ゴジラ』という映画が、もし『科学者芹沢の悩み』みたいなタイトルだったとしても、全く違う文芸作品ぽい受け取り方になってしまいます。
タイトルによる印象って、それくらい大きいんですよ。
元の『アシタカせっ記』だと思って見ると、この映画も分かりやすくなるんです。
しかし、タイトルを『もののけ姫』に変えられてしまった。
なので、宮崎駿は、わざとらしいくらいに『ナウシカ』と同じシーンを入れて「これはこういう意味だから、間違わないようにね!」と、いくつもいくつも注意点を作っているんです。
ただ、そういった「これは『ナウシカ』と同じ意味だよ」という誘導が、あまりにも知的というか、頭が良すぎて、僕ら凡俗には上手く伝わらないんですよね(笑)。
タイトルのバックに映る土面についても、宮崎駿は「これが映るということは “縄文人の文化” だってことは誰にでもわかるよね?」というふうに出しているんですけど。
そんなの、分かるはずがないんですよ。 そして、土面ということは、つまり「こういったアシタカの物語を、彼の故郷の蝦夷の村に残った元・婚約者であるカヤの子孫か、もしくはサンの子孫が後世に伝えた」というふうにも考えられます。
つまり、このお面は「我が一族の王子・アシタカの偉大さを思い知れ!」みたいなものなんですよ。
さて、「カヤの子孫が伝えたかもしれない」と言うと、本編を詳しく知っている人は「え? ちょっと待って。アシタカが故郷に残してきたカヤには、子供がいないんじゃないの? だって、アシタカのことをずっと思い続けますって言ってたじゃん!」って言うと思うんですけど。
カヤには、ちゃんと子孫がいるんですよ。
それを示すシーンは、映画の中にもちゃんと出てきているんです。
だけども、僕らにはよくわからないように描いてるんですね。
こういった、多くの人にはわからない伏線の数々を、丁寧に解いていくというのが、今回の前半の目的です。 カヤの子孫がその後のアシタカの物語をどうやって知るんだ… カヤってずっと3人娘の真ん中(祟り神に向かって刀出した子)だと思ってたら違ったのね。
字幕もカヤって書いてあったし、
ネットも真ん中の子って意見しか見たことないけど
よくみたら顔つき全然違うし、前髪も違う。カヤはオン眉 正確な一次資料や監督本人に対する丹念な聞き込みに基づく調査じゃねぇと話し半分の半分って感じ
特にこの人の場合はなー この人、アシタカが村から旅立つシーンの曲をアシタカせっ記って言ってるけど違うよな
「旅立ち〜西へ」って曲名で、もののけ姫のアレンジ曲だし っつか、サンタソとカヤタソと俺とで爛れた性生活を送りたい☆ 「【『もののけ姫』冒頭10分の完全攻略! 2 】 アシタカの受けた “呪い” の正体」
さて、タイトルが終わると、主人公のアシタカが登場します。
娘たちから「村の外れで異変が起きている」と聞いたアシタカが見張り台に登ると、村の境界線である “土塁” という石垣を破壊して “タタリ神” が現れます。
ここで描かれるタタリ神は、こんな感じなんです。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613050/94db02475efff811421e942eab6149d7b8415f67.png
これは、上から見た構図なんですけども。このタタリ神というのは、足が何本も生えていて、地面の上をすごい勢いで這い回っています。
こう見ると、案外、足が長いんですよね。
この、巨大なイノシシに蛇とかミミズのような妖怪が纏わりついたような状態がタタリ神なんです。
6本足のようにも8本足のようにも見えるのはなぜかというと、このタタリ神が “土蜘蛛” を表しているからなんですね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613051/64d5ac273afe5d26786ecf97b5bd0205f1001743.png
土蜘蛛というのは何かというと、もともとは、天皇家に従わなかった豪族や土着の部族に対する蔑称なんですよ。
「あいつらは土蜘蛛だ!」みたいな悪口を言っていたんですね。
そんな、天皇家の下に服(まつろ)わなかった人たちは “日本を魔界にしようとする怪物” として、源頼光によって倒されたという伝説が残っています。
つまり、宮崎駿としては「蝦夷族の王子アシタカが巨大な蜘蛛を退治した、という話が、伝聞を続ける内に歪んでしまい、権力者たちに利用され、源頼光の土蜘蛛退治になった」という世界を描いているんです。
こういった解釈は、宮崎駿としては一流のジョークのつもりで描いているんですけど。
残念ながら、このジョークも高級過ぎて、僕らには伝わらないわけですね(笑)。
この『もののけ姫』を作った頃から、宮崎駿は “高畑勲っぽく” なっていくんですよ。
つまり「誰にも分からなくてもいいから、とにかくやっちゃうよ?」と。
それはなぜかというと、あまりにも分かりやすく作ってしまったら、自分の中から「何かを作りたい!」というエネルギーが無くなってしまうことが分かったからなんですね。
なので、この頃から宮崎駿は、意地悪ということでもないんですけど「やりたいことは全部やるけど、その代わり、全部は説明しない」という作り方をするようになりました。 それ以前は逆だったんですよ。
『天空の城ラピュタ』の頃は、自分のやりたいことを我慢してでも、全てを分かりやすく描こうとしていたんです。
だから、ドーラも「こいつを連れて行った方が便利かもしれないねぇ」なんて、自分が思っていることまで独り言で喋っちゃうんですね。
こういった分かりやすい表現を多用する代わりに、アニメの中で描いて良いものと、描いてはいけないものとをハッキリ分けて作っていたんです。
ところが、『もののけ姫』からは「描いていいものや描いて悪いものなんてない! 子供達には全部見せなきゃいけないんだ! この世の中にあるエグいものも、全部見せるんだ!
……ただし、誰にでもわかるようには描かない!」というスタンスになったんですね。
なので、この土蜘蛛の描き方も、ちょっと分かりにくくなってます。
こういった要素も、宮崎駿としては「土蜘蛛といえば、東北地方の蛮族のことでしょ?」とか、「平安絵巻の中に蛮族退治のメタファーとして利用されているんだから、みんなわかるでしょ?」
みたいに、ウィンクするように見せているんですよね。
さて、そんなタタリ神に襲われた女の子たちを助けるために、アシタカは弓でタタリ神を退治してしまいます。
最初に目をバーンと射て、その後、眉間をドンと一発射て、殺してしまうんですね。
その結果、タタリ神の呪いは、アシタカの右腕に蛇のように巻き付いて、真っ黒なあざを残す。
そういう話が、冒頭3分くらいで、すごくスピーディに描かれます。
その後、村の長老の “ヒイ様” と呼ばれるお婆さんが現場に駆けつけてきます。
この「ヒイ様」というのは「お姫様」という意味ですね。
そして、ヒイ様が、ミミズとか蛇みたいなヌルヌルしたものが抜けて、今や巨大なイノシシの形に戻った神様に「いずこよりいまし荒ぶる神とは存ぜぬも、
かしこみかしこみまおす。 この地に塚を築き、あなたの御霊をお祀りします。 恨みを忘れ鎮まりたまえ」と言うんですね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613052/854c12eb3c191b591caf62daf9fa393a44e765cc.png
つまり「あなた死体の位置に、そのまま巨大な墳墓を作って、ずーっとあなたの魂にお祈りを捧げます。だから、これ以上は祟らないでください」と言うわけです。
すると、死にかけた大イノシシの神様は、いきなり喋りだすんですよ。「穢らわしい人間どもめ。我が苦しみと憎しみを知るがよい」って。
そして、そのままドロドロと消えてしまう。 この時の、イノシシ神の声は、メチャクチャ良いんですよね。
これは、普通のマイクの他に、この神様の声を担当した俳優さんの喉にマイクを貼り付けて、喉の震えも同時に録音して、声と喉の震えの音とをミキシングして作っているそうです。
なので、その息遣いも込みで、ものすごく不気味な感じに「穢らわしい人間どもめ」という声になっています。
イノシシの神様は、そう言うと、ドロドロと溶けてしまうんですけども。これもまた、いやな溶け方です。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613053/2eb2fa1fb58e3fbd7b3d7068f2f0b20342484516.png
溶ける時に、ニヤリと笑ってるような歯が見えるんです。
ここら辺の表現も、宮崎さんは全好調ですね。
宮崎さんは、Aパートから作画を開始しているので、序盤のAパートBパートの描写は、本当に「美しい」としか言いようがないんです。
前半1時間は、本当にすごい作画です。
イノシシの神様は、そのままは溶けて骨だけになり、最後の「呪ってやる!」という呪詛の言葉によって、アシタカは呪いをかけられたことになります。
さて、その日の夜、村の社(やしろ)の中で、会合が開かれます。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613054/622505e9874980e47d46a50b030c6dcb33d7dfd7.png
この社の内部を見てもらうと分かるんですけど、部屋の壁の中央の部分に出っ張りがあります。
これは何かというと “御神体” なんですね。
この御神体に張り付くように、高床式の社が建てられているんです。
この出っ張った岩の正面の位置に机があるのわかりますか?
すごく低いテーブルがありますよね?
このカットでは、アシタカの影になっていて、ちょっと見えにくいんですけど。
つまり、普段、神様に仕えているヒイ様は、この岩に向かって座っているわけです。
だから、この岩が御神体であることがわかります。 このシーンの最後にアシタカが髷を切り落とすシーンがあるんですけど、そこでも、髷を切り落とした後、この机の上に置いて、一礼して去っていきますから、やっぱりこれが御神体だとわかるんですね。
なぜ今、この御神体を説明しているのかというと「この村は岩を祀っている」=「巨石文明がまだ残っている場所である」ということだからです。
実際に、日本でも、青森あたりで “ストーンヘンジ” のようなものが出土してます。
なので、アシタカの村が、今で言えば東北のかなり奥の方にあるというのがわかります。
そして、彼らは “大和朝廷に服(まつろ)わぬ人達” なんですね。
日本人が巨大な岩を祀っていた時代というのは、仏教渡来の遥か前なんですよ。
仏教のように、人間が作ったものであったり、人そのものであったり、修行した偉い人を祀っているのを拝むというのは、縄文的な世界から言うと邪道なんですね。
「本当にすごいものは自然の中にあるものであって、人間程度のものを拝んでどうするんだ!?」とか、「人間が作った程度のものを有難がってどうするんだ!?」というのが、縄文人の世界観なんです。
で、ありがなら、ものすごいカッコいい形の土器とかを作るという。
縄文人って、ちょっと独特のメンタリティを持っていたんですけど。
なので、彼らは巨石を神体として拝んでいるんです。
そして、部屋の奥にも、縄文土器が見えます。
この巨石文化という以前に、ここに縄文土器があることからもわかる通り、彼らは “縄文人の生き残り” なんですね。
ちょうど『もののけ姫』が作られていた1980年代から90年代に掛けて「アイヌであったり、もしくは東北の方に住んでいた蝦夷という一族達は、縄文人の生き残りではないか?」という説が、日本の考古学界では騒がれていたそうなんです。
これについては、僕もよく分からないんですが、現在では主流の説ではなくなっているそうなんですけども。
宮崎さんは完全にそれに乗っかって物語を作っています。
なので『もののけ姫』というのも、縄文人の話だと思ってください。
??
さて、「傷を見せろ」と言われたアシタカが、包帯を取ると、腕の傷がこういうふうに見えます。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613055/caa725bbdbfe77260aaf3d41e4c47dc5734fc519.png
この傷痕の残る腕を見せるカットでは、バックにこれ見よがしに縄文土器が描き込まれています。
この縄文土器を見せることによって「はい、彼らは縄文人ですよ」と分からせているわけなんですけど。 その他に、もう1つの機能があるんです。
このタタリ神によって出来たアシタカの腕のウネウネしたアザと、後ろの縄文土器の模様、そして、最初にタタリ神が出てきた時に彼の身体中を這っていた蛇のようなウネウネは、どれもよく似ているんですよ。
そして、クライマックスに出てくるデイダラボッチも、身体の中に縄文的な模様がずっと動いています。
このデイダラボッチの設定資料を見ると「夜空が歩いてるようでもあり、歩く縄文土器のようでもある」と書いてあるんですね。
何が言いたいかというと、呪いを受けたアシタカの腕について、映画を見ている僕らは「これによってアシタカが苦しんでいる」とか、「これのせいでアシタカはもうすぐ死ぬ」と考えて見てしまうので、どうしてもそっちの方に引っ張られてるんですけども。
この、土器と一緒に見せられているアシタカのアザの模様というのは “縄文の神々のサイン” なんですね。
つまり「アシタカは呪われたと同時に、神々によって聖痕を与えられた」というサインでもあるんです。
彼は、この呪いによって、もちろんタタリ神にもなるんですが、ものすごい力を得ることもある。
アシタカは、このあざを受けてから、おヒイ様から「アシタカヒコ」と呼ばれるようになります。
この「ヒコ」というのは、古代の王子の尊称です。
ヒイ様というのは、この国の “宗教的な” 中心です。
要するに、この呼び方は「アシタカヒコこそがこの国の将来の長となる人物である」と認めているということです。
つまり、『もののけ姫』とは「その国の将来の王が、呪いであり聖痕でもあるものを与えられた」という話になっているんです。 最後、アシタカがたたら場で暮らすって言っていたけど
これはエボシ御前のいるたたら場?それともふるさとの村? 「【『もののけ姫』冒頭10分の完全攻略! 3 】 アシタカが村を追放された本当の理由」
呪いをかけられたアシタカは、村を出るしかなくなります。
というわけで、アシタカは自分の髷を切り落とします。
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アシタカの村の男達はみんな頭に髷を結ってるんですけども、これを切ります。
……もう「みんな何度も何度も『もののけ姫』を見てるでしょ?」という感じで喋ってるんだけど、大丈夫かな?(笑)。
はい、髷を切るシーンなんですけど、すごく小さい刀を使っています。
たぶん、この小さい刀が、この国に唯一ある “鉄” なんですよね。
おそらく、彼らは石器文化と青銅文化のちょうど間くらいの文明水準なんです。
アシタカが、後に旅に持っていく大きい刀みたいに見える武器や、女の子たちがタタリ神と戦おうとした時に抜いた大きい刀は、全て青銅製の “山刀” といわれるものです。
山刀というのは、山の中を歩く時に、邪魔な蔦を払うための杖と刀の間みたいなものです。
彼らには、そういった青銅文化しかなく、鉄というのは、ごく小さいものしか持ってないはずなんです。
なぜかというと、村人のみんなが刀くらいのサイズの鉄器を持てるほど膨大な鉄を製錬しようとすると、あの土地の近くに森なんか残っているはずがないからです。
鉄というのは「5トンの鉄を作るのに山1つなくなる」と言われるくらい、木を切らないと作れないものなんですよ。
なので、彼らが住んでいる場所からすると、鉄というのは、砂鉄を低い温度でなんとか溶かして、形にして、研ぎ出した、こんな小刀しかないのでしょう。
そういう文明だと思ってください。
アシタカは、そんな鉄の小刀で髷を落とします。
この「髷を落とす」ということは、「一族でなくなる」=「二度と帰れない」という意味なんですね。
そして、なぜ、彼がそうしなければならないのかを、ヒイ様が説明します。
ここでは、ヒイ様の表情込みで見てください。 http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/613057/7104de551b48dd81bd099e7b10a985010ceb815e.png
ヒイ様は「西の国で何か不吉なことが起こっている。その地に赴き、曇りのない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ」と言います。
この言葉を聞いたことで、アシタカは西に行こうと決意します。
同時に、僕ら観客も、なんとなくそれで納得させられるというか、騙されてしまうんですね。
そもそも、なぜ、アシタカは村を去らなければいけないのか?
??
なんでヒイ様は西に行かせようとしているのか?
いや「呪いを解く方法が見つかるかもしれぬ」って言ってるんですけど、それって何の根拠があって言ってんのよ?
そんなふうに思うんですけど。
これね、この映画の最初の大事なポイントなんです。
アシタカは呪いを受けて、右腕にアザが出来た。
この毒が行く行くは骨にまで達して、彼は死んでしまう。
この死から逃れるために、西に旅をする。
これが『もののけ姫』のストーリー展開だというふうに、今の今まで、僕らは思わされているんですけど。
だけど、それだけなら、そもそも追放する必要なんてないんですよ。
だって「タタリ神が死んだ場所には塚を築いてちゃんとお祀りします」って言ってますから。
いやいや、そんなことはない。あの怪物は死ぬ時に「死んだ後も呪ってやる!」と言ったじゃないか、と思うかもしれませんけど。
ところが、この映画の中には、犬の神様とか、イノシシの神様とか、いろんな神様が出てくるんですけども、死んだ後で祟った神様は誰1人としていないんですよ。
この映画の中に出てくる神様というのは、たしかにすごい巨大な力を持っていて、身体も大きいんですけど、それだけなんですね。
テレパシーみたいな超常現象みたいなものは一切使えない。
まあ、唯一、シシ神だけが、ちょっと不思議な力を持ってるんですけど、他の神々は、そんなものを持っている描写がないんですよね。 もちろん「死んだ神々が、死後も続く呪いを残す」なんて描写も1つもありません。
乙事主もモロも、この映画の中で死にますけど、死んだらそれっきりです。
つまり、死後の呪いなんていうものは、この物語の世界にはないんです。
じゃあ、なぜアシタカは追放されたのか?
それはもう「ヒイ様が追放したいから」なんですよ。
なぜ、アシタカに呪いに関する話をする時のヒイ様が、ポーカーフェイスで語っているのかというと「演技しているから」なんです。
村人もアシタカも気がついてないんですけど、ヒイ様の心の中にだけ、ちゃんと理由があるんです。
それは何かというと、アシタカの呪いの正体というのは「死ぬこと」ではなく、「アシタカ自身がタタリ神になること」なんですよ。
アシタカは、これからゆっくりタタリ神になっていくんですね。
ついさっき村を襲った怪物と同じように、自分の痛みや苦しみに段々と耐え難くなり、自分の運命を呪うようになる。
たぶん、襲ってきたイノシシ神も、最初はそれを理性で抑えていたんですけど、徐々に徐々に、タタリ神になってしまった。
それと同じように、アシタカは次のタタリ神になる運命を受けてしまったんですね。
アシタカは、この後、戦に巻き込まれた時に、普通に弓を構えて矢をパーンと射っただけで、相手の侍の両腕ごと落とすほどの怪力を見せます。
それどころか、次の矢を射ると、相手の首がポーンと切れるんですよ。
これにはアシタカ自身も驚いているんですけど。
これは、この時点で、彼にはそういうパワーが与えられているからですね。
そして、それは聖なるパワーであると同時に呪いのパワーなんです。
呪いのパワーはアシタカを死に至る苦しみへと誘い、そして、聖なるパワーは彼の力を無限大に膨らませて行く。
アシタカは、タタラ場に行った時にも、傷ついたサンを担いで「どいてくれ! 俺は行くんだ!」と、本来は何十人掛かりでやっと開けられるような巨大な木の扉を、
1人で、それも片手だけでグーッと押し開けます。ここで使うのも、やっぱり呪いを受けた右手なんですよ。
??
これは何かというと「アシタカの中で、怒りとか悲しみとか不条理なものへの何かが吹き出すと、無限のパワーが出てくる」ということなんですね。 僕らは、こういった、アシタカが無限のパワーを、ある程度、意のままに使っているシーンしか見ていないので「そんなものか」と思ってしまうんですけど。
あれは明確にアシタカが段々と怪物になっていく途中を描いているんですね。
実は、この映画は、そんな「主人公のアシタカは、最後にはやっぱりタタリ神になってしまうのか? それとも、
人間のまま生きて行けるのか?」という葛藤が、もう1つの地下構造として仕込まれているんです。
だけど、それがなかなか伝わらない。
やっぱり僕、わからなくなっちゃった理由の1つは、タイトルを『もののけ姫』にしちゃったことにあると思うんですよ。
なので “恋愛モノ” に見えちゃうんです。
でも、違うんですよ。あれは、本来は『アシタカせっ記』というタイトルの、アシタカの物語なんですよ。
アシタカの心の中には、絶望や怒りというのがあるんです。
だけど、表面上は、無表情だし、すごくジェントルに描いてあります。
そして、こういった「礼儀正しい態度とは裏腹に、彼の中には深い絶望や怒りがある」ということは、あえて今回は描かないと、宮崎駿は言ってるんですね。
描かない理由は何かというと、映画を作っている最中に、司馬遼太郎と対談した時、宮崎さんが彼の言葉に感銘を受けたからだそうです。
「そうか! 弱音を吐くような人間は “弱虫” なんだ! 俺が庵野の『エヴァンゲリオン』が嫌いな理由がわかったよ! 僕は可哀想だ、僕は可哀想だって、あんなに泣きごとを言いやがって!」と。
司馬遼太郎から「本当に不幸な人間は、むしろ礼儀正しくなる」と言われて、宮崎駿は、本当に感動したそうなんですけど、その影響なんですね。
なので、アシタカの内面は台詞になって表れないんです。
『ラピュタ』のドーラみたいに「この方が便利かもしれないねぇ」みたいな独り言を一切言ってくれないんですね。
その結果、「アシタカがどんどん怪物になっていく」という描写も、表現としては怪物じみているんですけど、僕らとしては、スーパーヒーロー的な良いことみたいに思っちゃうんです。
だけど、それは違うんですね。
アシタカが、指先ひとつで相手の刀をグニャっと曲げて、最後は親指と人差指だけで刀をへし折るシーンとかも出てくるんですけど。
あれは完全に「怒りによって力が暴走していって、モンスター化している」という表現なんです。
最初は、アシタカも、落ち着いて自分の心をコントロールしていた。
「村から出て行け」と理不尽なことを言われても「わかりました」と言って、ため息を吐くくらいだったんですけど。 映画の後半では「興奮すると、どんどん力が暴走して、自分でも制御できなくなる」というところがハッキリと出てきます。
そして、おヒイ様は、あの村でただ1人それに気が付いているんですね。
怖いのは死んだタタリ神じゃないんですよ。
おヒイ様にとっては、これからタタリ神になり、人間でなくなってしまうアシタカこそが、一番怖かったわけです。
だから「アシタカは良い子で、たぶん、うちの村を継いで良い王になってくれるだろうけど。しかし、もうすぐ彼は、
痛みと恨みと自分に降り掛かってきた不条理に対する怒りで、怪物になってしまう。その前に村を追い出そう」と考えたんですね。
その上で、さらに「このタタリ神となる若者を、我々の村にタタリを押し付けた西にある大和の王の元に送り込んでしまおう」と考えています。
この時代の縄文人の考え方では、タタリというのは、誰かに返さないといけないものなんですね。
こういうのを「忌み返し」と呼びます。
何か忌むことをされた場合は、それと同じように相手を忌むことで返すのが、未開部族の間のルールとしてあるんです。
平安時代になってくると “式神返し” とか、もう少し体系化されるんですけど。
なので、おヒイ様は、すごいポーカーフェイスで “戦略兵器” としてのアシタカを、西の大和の国へと送りつける忌み返しを発動させたわけですね。
でも、アシタカも村人も、これには全く気が付いていません。
なので、アシタカは「西に行けば呪いを解けるかもしれない」と信じているし、「この村に、これ以上、呪いが感染らないように」と思ってしまって、自分自身が呪いそのものであるとは気が付いていないんです。
数週間か数ヶ月後には、アシタカもまたタタリ神となって、変な蛇みたいなウネウネしたものが身体にいっぱい巻き付いて、
西の国を襲うことになるだろうとは、わかっていないわけですね。
劇中には、たぶん、おヒイ様と同様に、それに気が付いていたかもしれない人物がもう1人出てきます。
それが、ジコ坊という、もう少し後で出てくる、なんかちょっと複雑な、ワケアリな設定のおじいさんです。
この人も、最初にアシタカに会った時「こんな鉄の弾がイノシシに入っていました。そのおかげで、私は呪いを受けました」と言う彼をしばらく見て、
急に「ここから西の端のもっと西の方に行くと、山の中にすごい神がいる。
その神に会えば、君の呪いもなくなるかもよ」と言うんですよね。
これはつまり「ジコ坊はジコ坊で、デイダラボッチという大怪物に、このアシタカという大怪物をぶつけることによって、退治しよう」と思ったからでしょう。
このように『もののけ姫』という作品は、個人個人が持っている思惑とか戦略とかを、あえてそのまま表現せずに、あくまでもアシタカの視点だけで見られるように作っているので、そこら辺がなかなか分かりにくくなっているんです。 >>610
エボシのいる村
故郷の村にはもう一生戻れない もののけ姫はエヴァの旧劇と同じ頃に放映されたんだっけか
どっちも作品のシリーズ史上最もグロく子供から大人まで 容赦無くトラウマを植え付ける劇薬映画という点では同じだな
だが、そこがいい >>584
とはいえこれくらい説得力のある解説をここまで分かりやすく語れる評論家が他にいるか?と言われるとねえ…。 >>584
岡田斗司夫は言ってることめちゃくちゃな時あるけど、バカに合わせて丁寧に論理立てて喋るから聞き手が岡田斗司夫の意見を取捨選択しやすいのは良いと思う >>618-619
セクハラインチキデブ本人ですか
デマ製造器さっさとジブリに訴えられろ 村内会議の席でアシタカが髷を自ら断髪した時に、同席した村の世話役らしきオッサンが静かに涙流したの見りゃ、呪いが解けたからじゃあ帰りますってのはリームーな問題なんだな、っつうの察せないのか……… そもそもラストシーンでもまだ右手に痣が残ってる時点で、呪いは完全には解けてない。
神殺しの片棒担いだ代償として帰るの諦めて呪いと折り合いつけて生きていくことにしたんだろ。 確かにうっすら痕は残ってたけどアザはシシ神が消してくれたんじゃないの?
アシタカが私に生きろと言ってくれた、って言ってるし
生きろ=死なない=呪いが解ける=アザは治った だと思ってた >>620
セクハラとデブはその通りだと思うが、インチキってどこ?
あんたが宮崎アニメに関してあいつより面白い評論書ければ信じてやらんこともないが。 「実はすごくエッチな『もののけ姫』の話」
では次は、“実はすごくエッチな『もののけ姫』”の話なんですけども。
村を追い出された後、アシタカは村の出口で自分を慕う少女・カヤに呼び止められます。
それでカヤは愛の告白をして「いつまでも、いつまでも、お慕い申しています」という事を言って、黒曜石で出来た小さいナイフをアシタカに渡します。
それでアシタカはそれを貰って、「私もだ、いつもカヤを思おう」と言うんですけども。
めっちゃイケメンの表情で、にっこり笑いながら言うんですね。
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それで「これからも、ずっとお慕いします」というのは どういう意味かというと、「生涯、他に誰とも恋をしません」という意味なんですね。
それで黒曜石の小さなナイフを渡されて、さわやかに笑うと。
で、女の人で、このシーンを、「アシタカのこういう所が好かん!」と嫌う人が かなりいるんですよ。
何でかっていうと、ここまで言われて、イケメンな感じで微笑んで、大切な黒曜石の小刀を受け取っておきながら、後でコイツは事も無げにサンに渡すんですね(笑)。
自分が次に好きになっちゃった女の子に。
同じ石田ゆり子が声優しているもんですからですね。
サンに、それも直に渡すんだったらともかく、犬を通して渡すんですよ。
「これをサンに渡してくれ」って言ったら、犬が「ガッテン承知!」って言ってサンの所に持って行って、そしたらサンが「まぁ!」って言って、その瞬間に女の顔になったりするんですけども。
それで「なんじゃ、このアニメは?」と、お姉さま方は怒るわけですよ(笑)。
確かに怒って当たり前なんですよ。
「私はまた時々 来よう」とか「来てくれ来てくれ」みたいな感じの事を両者が言うんですけども。
ラストでサンといちゃつく暇があるんだったら、呪いはもう解けたんだから、生まれ故郷の村に戻ってカヤに会ってやれよと。 「村に帰ってこんかい!」と怒る人が、ジブリの公式本にすら書いてあるんですね(笑)。
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『ジブリの教科書 もののけ姫』っていうジブリの公式本の、女性の研究者とかライターの人が「こういう所は許せん!」と書いてあるぐらい怒ってるんですけども。
ま、怒る気持ちは よく分かるんですけども、実はこのシーンは意味が違うんですね。
これは、すべて象徴なんですよ。
ここが宮崎駿が描く部分と描かない部分で、「必要な事はすべて描くけども、分かるようには描かない」というふうにやってる所なんですね。
村の外れに、夜中に女の子が忍んで会いに来て、そして自分の生涯恋をしない=貞操の印っていうのをくれるわけです。
これが どういう意味かっていうと、「二人は人目を忍んで○○○○した」って意味なんですね。
それで、その○○○○シーンを宮崎さんは描きたくないので、わざわざ「いつまでも自分は貞操を守ります」という小刀を渡す事によって、メタファーとして表現してるんですよ。
だから本当は、ここでカヤとアシタカは人目を忍んで○○○○しているので、カヤの中にはちゃんとアシタカの血筋は残っていて、それがあの一族の土面の形となって、アシタカ皇子の伝説となってかえっていくって話になっているんですけども。
宮崎さんは、こういうとき人一倍恥ずかしがり屋だから、描かないんすね。
それで、これは別のシーンなんですけども、『もののけ姫』の中にはもう一つ○○○○の話題が入っていて。
それはアシタカがサンに看病をされていて、傷が治って、何日も寝たきりの所から起きるシーンがあります。
岩屋の中ですね。
岩で出来た小屋みたいな所の中なんですけども。
アシタカがサンを見つめていると、サンは無防備な寝顔で寝ていて、オマケに足も見えているんですね。
それで、このシーンのコンテを見たときに、鈴木敏夫が「ピン!」と来て「これ、この二人は○○○○しましたよね?」ってふうに聞いたそうなんですよね(笑)。
そしたら宮崎駿って、こういう時には絶対に「いや、違う!」とか「そうです」って答えるんですよ。
「絶対に何か答えるんですけども、この件に限って宮崎駿は一切 答えようとしない」っていうのを、鈴木敏夫が凄く嬉しそうにラジオで言ってるんですけどですね。 いつも明確に「そうです」とか「違います」って言う宮崎駿が、こういう○○○○とかに関する場面だけは絶対に答えないと。
それで問い詰めると、「サンとアシタカがここで○○○○をしましたよね?」って聞くと、「そんなのワザワザ描かなくても分かりきってるじゃないですか!」って言ったそうなんですけども。
そういう事なんですよ。
宮崎駿が、今回の『もののけ姫』で取っている表現技法っていうのは、「カヤは夜中に会いに行く」というだけで、この部族にとっては「関係があった」と見なされるわけですね。
オマケにカヤは「連れて行って」とも言わないし、出て行くことに関してグズグズ言わないと。
それは何でかっていうと、「もう○○○○して、すでに子供を貰っているからだ」って意味なんですよ。
それでアシタカの血筋は残って、それはカヤが受け継ぐと。
なので、「そういう事もこのシーンを見て分からないようなヤツは、そもそも俺の映画が分からない」っていうね。
そんなモン、分かるハズがない(笑)。
僕は映画館で見ても分からなかったですし、VHSで見ても分からなかったですし、DVDで見ても分からなくて、今回のこの企画用にブルーレイでみて「あれ?」ってなって、「あ、そうか!」と。
それもやっぱり、あらかじめ鈴木敏夫がラジオで言っていた「サンとアシタカは、ちゃんと○○○○してる」っていうのを聞いた上で このシーンを考えると「あ、そういう意味なのか」というのが分かるように出来ているんで。
本当に必要な事は描く。
つまり、こういう部族で、別れで、夜に男女が会っているっていう事は、もう関係があったということだと。
だから “関係があった” という事実は描きたい。
しかし、それを表現はしたくないっていうですね。
この宮崎の描き方なんですね。
なので、この “アシタカ伝説” という、土面の所に「我らの先祖の偉大さ」みたいなものが刻み付けられているのは、それはカヤが血筋を残しているからであって。
宮崎さんも聞かれたそうです。
「何でアシタカは、もののけ姫のサンとイチャイチャするんじゃなくて、カヤの待つ村に帰ってあげないんですか?」と聞かれたそうです。
そしたら、「それは女性記者にも聞かれたし、アニメーターのスタッフの女の子にも聞かれたんだけども、そんなのは別に俺が描いてないだけだ」と。 「この映画の中で描いてないだけで、あの後でアシタカは村に帰ったかもしれないし、それどころかサンを連れて帰ったかもしれない」。
「サンを連れて帰って、カヤと会わせて、カヤとサンの両方を嫁にしたかもしれない」と言ってるんです。
「なんでかっていうと、それがこの世界だし、そういう話なんです」と。
「王族の話だから、そうなんです」っていうふうに言ってるんですけども。
やっぱり僕らは、「そういう事を言われてみりゃ、そうかな」と。
「あっ、古代日本の王だから、確かにそうかな」って思うんですけども、それを言われるまで思わないじゃないですか(笑)。
現代人の感覚で見てるから、「サンを連れて帰って、両方を嫁にするって何よ!?」って思っちゃうわけですね。
だから『真田丸』のなかで、「真田幸村って武将は、何人も何人も嫁がいて、側室がいた」って内容をNHKのドラマの中では一切それを描かないのと同じように、「描かなくても、分かっている人は分かっている」って描くのとの違い。
宮崎さんも、そこらへんは “そういう事” を描かないんだけども、「もしそこが気になるんだったら、アシタカは田舎に帰ったって事にしても構いません。 その時はサンも連れて帰って、嫁が二人という状態になったでしょう」というふうに言ってるわけですね。 でも何もカヤからもらったペンダントをサンにあげなくともよかったのでは
あれは完全に気持ちが移った表現だと思う アシタカのサンへの気持ちは単純な恋愛感情とは違うと思うがあの小刀あげたのは本当何故なんだろうな “エッチな”とか形容しちゃう段階でなんだかな、っつうw
>>632
自分の気持ちを込められる贈答品的な扱いが可能な体裁の良い物品を他に所持していなかったからじゃね?
あの状況じゃ「サンタソに相応しいブリリアントかつトレメンダスかつキュートなプレゼンツってなーにかにゃ☆」とかゆっくり考えてる余裕なんてないだろうし /i /{/'⌒'} }}Y/ / ,r-、ヽ, /
ノ、|、ヾ_,,ノ ノ ノ{ ヾ {^')) }フ/ / _/
\ヽ、 彡'`、、 'ー' ノ //",,゙ """ / ヽ
ヽ-、ミ‐-、、 、,r=‐'ー=、、,-‐'_ ヽ、 /ノ / 『味』 ウ・ こ
ミ/ ~  ̄ノ /\ /彡 "" |/ だ ソ・ の
/ ,' u ∪ ! ヽ | i、゙ー''"彡 /| ぜ を・ 味
、、∪ / ノ / _,,,...-‐‐ニ=,ノ,,/ ヽ、,,_ \ ,イ / | : つ・ は
ニ、=!, l_. レr=-ニ二、,,,.-'" ー、==-ヽ'"/ / ヽ : い・
、(・,)>ノ⌒ ∠,(・,)_く ゙` ヽ゚ノ`ー=、_ /// ∠ : て・
 ̄/""゙ ヽ ̄ ̄ \ヽ  ̄ ̄ // ノ る・
u 〈 、 u (ヽ //  ̄ノ
ヽ -' lj >、 // /  ̄ヽ、
/ヽー‐ 、 /'"´ 'i // / ∨ヽ/
^゙"⌒ヾ、 ,i| ,"__} // / /
ー- - ヽ_人`'′ // / /
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、 _/-‐ヽ、___,,,, -‐‐  ̄
ー-、、,,__,-‐'//ノゝノ ノ ヽ\ >>631-632
あの時は死ぬ気でいるから形見に一番相応しいじゃん
サンに必要な人の心のこもったものだしな
アシタカがサンを見て美しいと言ったのとサンが小刀見て綺麗と言ったのは本質では同じよ
駿が男なんて〜って言ったのはその場では石田をあしらいたかっただけで深い意味での愛する人に贈る物だってアシタカも認識してるから渡したんだろう アシタカはカヤを地元の取り巻きのセフレ位にしか思って無さそう アシタカが地元に、カヤの元に帰らないのかと言う人いるけど
アシタカは掟で戻れないって事分かってないのかな?
呪いがなくなっても掟は変わらないのに 宮崎駿の考えたタイトルは「アシタカせっ記」だったそうだ
しかし周りに反対されて「もののけ姫」というタイトルになったそうだ
「アシタカせっ記」のほうが良いタイトルだと思った
あの映画の主人公はどう見てもアシタカだし >>641
パヤオはアシタカせっ記で決めてたのに鈴木Pが勝手にもののけ姫で発表したんだっけ
よくキレなかったよなw せっ記はどうかなあ…
ありきたりで、印象に残らない
かといってもののけ姫ってのもなあ 「せっ記」って言葉は宮崎駿が考えた造語
普通の人は「せっ記」って何?と思うはずだから印象に残ると思う せっに当たる漢字も創作だから変換出来ないし宣伝にも使いにくいし
もののけ姫では無くてもいいけどアシタカせっ記を却下したこと自体は正解だと思うぞ >>644
造語なのは知ってるけど、意味はありきたりでしょ
日本人は知的なので、そういう意味なのだと知れば、そのありきたりなタイトルに平凡なものを感じると思うよ 白雪姫やシンデレラみたいでインパクトあると思うけどな
タイトルがもののけ姫だからこそモロの血を吐いてるシーンがやっと出てきたって感じで強烈に印象に残る
英語版のprincessはなんか違う気がするけど 「宮崎駿の考えたこと」を勉強しないと楽しめない作品
それが一昔前の考え方だから世間の人にはなじめず、過去のものになっちゃうな 「【『もののけ姫』の読み方 1 】 エボシ御前は 女・毛沢東?」
エボシ御前の一番最初の登場シーンは、米の買い付けキャラバンから、タタラ場の牛飼いたちと一緒に帰って来る場面です。
この “牛飼い” というのは、当時の「士農工商エタ非人」という身分制度の中で、一番下だと言われていた “非人” と呼ばれた人々が就いていた職業なんです。
……まあ、この「士農工商〜」という身分の分類は「実際は、明治になってからの創作だ」というふうに、最近では言われてるんですけど。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614453/d1aa88d037dc83dfbd8c59297a30548586ab5299.png
牛飼い達が牛を引っ張って、その上に米俵を乗せて、米を運んでいます。
考えてみれば、かなり裕福な村ですよね。
村人全員が米を食ってる村というのは、実は、なかなかすごいんですけど。
この最中に、キャラバンは山犬達の襲撃を受けるんですね。
その結果、戦闘が起こり、山犬の親分のモロはエボシから石火矢の攻撃を受けて手傷を負って、崖の下に落ちて行く。
この時に、自分たちの仲間、子分も、牛も、牛飼い達も、ずいぶん沢山、崖の下に落ちて行ったんですね。
それに対して、ゴンザという、いつもエボシの横にいる側近が「谷に落ちた者はどうします?」と聞くんですよ。
このゴンザというのは、エボシ御前が倭寇の妻だった頃からついてきている部下らしいんですけども。
でも、エボシはわざとその言葉を無視して「すぐに出発しよう。隊列を組み直せ!」と全員に号令を掛けるんですよね。
谷に落ちた者は、まだ生きているかもしれないのに。
どういう事かというと、治る見込みのない、言っちゃえば、身体障害者になっているかもしれない者たちを養う余裕は、タタラ場には無いんです。
だから、躊躇なく見殺しにするわけですね。
そして、エボシ本人は、こういった冷徹な人間であることが他のみんなにバレないように、かなり気を使っています。
だから、崖の下に落ちたコウロクという牛飼いが、アシタカに助けられて村に帰って来た時には「コウロク、すまなかったな」と、つまらない牛飼いの下っ端一人一人の名前を覚えているかのように、大袈裟に謝ったりするんですね。
だけど、ここでは謝っているように見えても、たぶん、この人は、また同じ状況になれば、平気で彼を見捨てると思うんですよね。 さらには、アニメとしてのクライマックスである “シシ狩り” のシーンで、彼女は地雷が仕掛けられた場所にイノシシ達をおびき寄せて、ドーンと吹き飛ばすようなことをしています。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614454/286e2a486524b0b68efcadb30e309d07e121ed6d.png
これは、その様子を見下ろしているエボシとゴンザです。
両者とも、目線が見えないように帽子で顔の上半分を隠して描いてますよね?
これは襲い掛かってくるイノシシ達を地雷原に誘い込んで吹き飛ばすという作戦なんですけど、この時、囮として、
エボシの配下のタタラ場の牛飼いなどの子分達を、地雷原のすぐ近くに配置しているんです。
それに向かって来るイノシシを爆弾で吹き飛ばすもんだから、彼らも爆弾の被害を受けるし、上から吹き飛ばされた巨大イノシシの死体も降って来るから、もう、ほとんど全滅の状態になります。
後に、イノシシと人間の死体が混ざってわからなくなるほどの死屍累々な光景の中、生き残った村人の一人が顔を隠して泣いているところを、アシタカが見つけるという、かなり悲惨なシーンがあるんですけど。
エボシというのは、最初から自分の部下を囮として配置することすら選択肢の1つとして考えているような人物なんです。
だから、そういう事態がいざ現実に起こっても、それを冷静に見ていられるんですよ。
このように、エボシというキャラクターには、もちろん“知性と優しさに溢れる良きリーダー”という側面もあるんですけど、同時に“目的のためには仲間を平気で犠牲にする冷たさ”という面もあります。
その2つを兼ね備えた人物として描かれてるんですね。
僕が思うに、このエボシのイメージ元って、たぶん、この人だと思うんですね。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614455/53a9e3a1dc801954ff4ce7454b836eb2595fef79.png
毛沢東です。
毛沢東というのは、圧倒的なカリスマ性と徹底的な合理性で国造りのためには容赦なく “文化大革命” などの破壊と殺戮を行いつつも、その一方では、農民の生活をただただ向上させようとした人でもあります。
なぜ、これがエボシのモデルなのかというと。
??
実は、毛沢東は、当時の世界の鉄鋼産業をリードしていたイギリスを「15年以内に追い越す!」と宣言して、
中国の村中にタタラ場(製鉄所)を作って、農民に製鉄を教えて、中国国内の鉄の生産量を飛躍的に上げようとした人なんですよ。
まあ、結果的には大失敗したんですけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています