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新選組総長に

翌8月の八月十八日の政変に際した御所警固にも山南は出動し、その2日後に京都に潜伏する長州系浪士を土方らと斬っている。

翌9月には再度の主導権争いにより筆頭局長の芹沢と局長の新見が粛清され、壬生浪士組は近藤派によって統一された。

その後の組織再編で山南は新設された総長となり、局長の近藤、副長の土方に次ぐ地位に就いたが、
この事件以降、のちに脱走するまで山南の名は新選組の活動記録から消えてしまう。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件にも、山南は出動していない。

永倉新八の手記『浪士文久報国記事』の同年6月26日の条には、山南が病気のために屯所に引き込んでいた旨が記されているものの、その消息は不明である。

同年11月、山南とは同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かった伊東甲子太郎が新選組に入隊。

伊東のために山南よりも上席の参謀を新設して迎えるという破格の待遇だったが、
これで山南は幹部としての立場を失っていくことになった。