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『 ヤクザの息子が行くのは国士館か日大』
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0001名無しなのに合格垢版2018/05/19(土) 07:11:37.72ID:WbdCFeLk
>>751 =ID:YYksdrY00
【日大の闇】悪質タックル問題の元凶は、日大・田中理事長体制

「日大の声明にはあきれ果てた。ずっとフェニックスを応援してきたが、いったん廃部したほうがよいのではないか」。

日大出身で、政官界に幅広い人脈を持つ大物OBがそう吐き捨てた。OBが憤るのには理由がある。今回の日大の対応が、
大学理事会を牛耳る田中英壽理事長の恐怖政治と表裏一体とみているからだ。

元凶は、裏社会とのつながりが噂される田中理事長体制
 
学校法人日本大学の理事長に体育会出身者が就くのは、田中理事長で3人目。1940年代に4代の理事長や
会頭・会長を務めた古田重二良氏(柔道部出身)が最初の体育会出身理事長で、8代にはボクシング部出身の
柴田勝治氏(日本アマチュアボクシング連盟会長、日本オリンピック委員会委員長など)が就任した。
その後、3代続けて学術畑出身の理事長が続いた後、2008年に12代理事長に就任したのが現在の田中理事長だ。
 
田中理事長は69年に日大を卒業して、同大学に入職。保健体育事務局長や校友会会長を経て常務、
理事長と階段をのぼってきた。日大相撲部の現役時代は学生横綱、社会人ではアマチュア横綱にもなり、
日本オリンピック委員会(JOC)や日本相撲連盟の要職も務めるなど、「日大体育会のドン」として君臨してきた。
 
日大HPに掲載された写真でわかる通りのコワモテで知られるが、田中理事長の写真をめぐっては一時期、
キナ臭い噂が流れたこともある。米国のニュースサイトに、田中理事長と司忍(篠田建市)6代目山口組組長
とのツーショット写真が掲載されたのだ。写真の真偽は不明だが、検索サイトで田中理事長の名前を入力すると、
国内最大の指定暴力団トップが表示されるという異常な事態になっている。
 
大学関連の工事業者から金銭を受け取っていたと報道されたこともあり、本来なら学校法人の理事長として
適格性が問われる「はず」だ。しかし、田中理事長の座が揺らぐことがないのは、体育会特有の暴力性と
押し出しの強さで理事会を牛耳っているからだ。実際、日大の理事長選は怪文書が飛び交うキナ臭い
ものになっているという。
 
その側近中の側近といわれるのがアメフト部監督の内田正人氏。アメフト部は日大体育会のなかでは新興勢力だが、
篠竹幹夫監督のもとで黄金時代を築いたことで学内権力を握るようになった。
 
冒頭の日大OBは、大学と裏社会が関係を持つようになった背景に、60年代の日大紛争があると話す。
 
「日大は学校のボディーガードとして在学生を雇っていたが、そのなかにはヤクザの息子もいた。
当時、ヤクザの息子が行くのは国士館か日大と言われており、その時の腐れ縁が今も続いているのだろう」。
 
全国の日大OBは、誇りでもあった日大フェニックスの今後について、健全なかたちで「復活」することを
固唾を飲んで見守っている。

http://www.data-max.co.jp/300517_dm1777_n2/
0002名無しなのに合格垢版2018/05/19(土) 07:21:03.96ID:Y7rP8Qm9
過去の殺人件数、強姦件数、暴行傷害件数で日本一のブラック大学。

黒歴史のやかた。

黒史舘。
0003名無しなのに合格垢版2018/05/19(土) 07:38:45.67ID:Vid1GXtY
日大拓殖国士館
0004名無しなのに合格垢版2018/05/19(土) 07:41:05.81ID:dewzmvqz
ヤクザの子だけど立教だよ
0005名無しなのに合格垢版2018/05/19(土) 11:32:46.59ID:OQDcpq/8
日大本部とは  『富野由悠季全仕事』

富野 

ゲーム的以前です。主義主張なんか関係ないから、メッチャクチャ面白い。
それと体制というものが、全学連レベルでは崩せないということを、僕は日大で教えられました。
もう40年近くも前のことだから話してもいいでしょうけど、本当に一度だけ、息が飲むくらいびっくりしたことがあります。
ある学生課の課長から動員がかかって、「何月何日お前ら本部に集まれ。それから赤坂に行け」と。
で、そこに行くと、体育会系の連中がだーっと集まってる。
体育会系といっても、中央が呼ぶんだからオール日大メンバーなんですよね。
その連中と僕たち中執の連中が赤坂に集合させたれたわけ。
何かというと、当時のケネディ政権下の司法長官、ケネディ大統領の弟のロバート・ケネディが始めて日本に来た時、
日大の古田重二良会頭に会うということだったんです。

60年安保の後、もう一度学生運動が盛り上がって日大闘争が起きるまで、日大には古田体制というのがあったんです。
中執はその統制下に入っている自治会でした。
で、当時赤坂には日大の迎賓館があって、そこの純和風の全部茶室みたいな、
それはそれは立派な平屋の外に僕ら並ばされたわけです。
司法長官と会頭の会談がおわってから、会頭が呼んでいるから中執の連中は全部集まれと茶室みたいな処に呼ばれて、
「お前ら頑張ってくれ」と。その後生まれて初めてベンツに乗って帰っていいと、
10人ぐらいの中執の連中を一台一台の外車のハイヤーに載せてくれたんです。
僕はその日もう小田原に帰るつもりがなかったから、中執の仲間の家までベンツに乗ったんです。
「日大というのは一体何なんだろう」と、僕はその時ホントもう真っ青になりました。

――そういう体験が、後のジオン公国とかザンスカール帝国みたいなもののモデルになっていたのでしょうか。

富野

それは映画版やっているときに、初めて気がついてたんです。
『ガンダム』みたいな作品をやりながら、何でジオン公国みたなフィーリングをああいう風に描けたんだろうかという時に、
ああいう光景を目撃させてくれたという日大には感謝してます。
それは絶対無縁ではない。ああいう気分を知らないで書いている人とは違うと思います。
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