不合理なことが民衆の間に、あるいは社会に
おいて語られ、著書に書かれて堂々ととりあ
げられ、すくなくとも論難の対象とはなって
いないことがあるが、およそそういう不合理
に接した場合、絶望的になって結局いつまで
もこのままなのだろうと考えるのはよくな
い。そうではなく、問題はあとになってぼつ
ぼつ再検討をうけ、正体を明らかにされ、熟
考を加えられ、論究の的となり、大抵の場合
結局正しい判断がくだされるのだから、問題
のむつかしさに匹敵するだけの期間がたて
ば、かつて一人の明敏な頭脳が直ちに看破し
たところをついにはほとんどすべての人が理
解するようになるのだということを知って、
それで心を慰めるがよい。
「幸福に生きる」ということは、「あまり不
幸でなく」すなわち我慢のなる程度に生きる
という意味に解すべきものであることから、
幸福論の教えが始まるのでなければならな
い。もとより、人生は本来、楽しむべきもの
ではなく、克服し始末をつけるべきものなの
である。
いずれも奥が深い。なまじっかのやすっぽ
い幸福論とは違い、厳しいが、人生、その厳
しさを克服し続けることが幸福だということ
で納得した。